昔ながらの風情を残す
東海道の宿場町・関町を訪ねて 
(日本・三重)

2003年5月24日

 昔ながらの風情を残す三重県関町(人口7,222人、2,524世帯、面積79.88平方キロメートル:2003年5月1日現在)を訪関町まちなみ・保存地区ねて参りました。関町にある関宿は、安藤広重の浮世絵でも描かれた東海道五十三次の日本橋(東京)から数えて47番目の宿場町です。江戸時代、関宿は、伊勢国に位置し、人口1,942人、家数642軒で、本陣2つ、脇本陣2つ、そして、42の旅籠屋があり、往時には、大名行列や伊勢参りの人々で賑わいをみせていました。

 今でも、旧街道には、時代劇の背景になりそうな古い町並みが続いています。一番上の画像と上から2番目の画像は、関宿の町並みを写したものです。風情が感じられる古い町並みがご覧いただけます。上から2番目の画像の左側に見られる建物は、百五銀行ですが、町並みに溶け込んだ外装となっています。また、通り沿いにある郵便局も同様に、町並みになじんだ外装となっていました。

 当時の面影を残している関宿は、人々が今も日々生活しながら町並み保存を進めており、生活感が感じられます。東海道の東西約1.8キロメートル、25ヘクタールにも及び、江戸時代から明治時代に建てられた古い町屋が200軒あまりも残っています。関宿は、鈴鹿山脈の東麓にあり、関宿という名前の由来は、古代にあった鈴鹿の関からきています。鈴鹿の関は、越前の愛発(あちら)の関、美濃の不破(ふわ)の関とならんで、古来「三関」といわれたもののひとつと言われています。関宿は、古い町並みを残すばかりでなく、三重県下ただ一人の桶職人の方も健在しています。三重県指定伝統工芸品として高い評価を得ており、桶はすべて注文ですが、日本全国から依頼が舞い込むそうです。代々伝わる職人魂は、いまも衰えていないところが素晴らしいです。

 関町の歴史は古く、少し紐解いてみますと、天智天皇の死後、大関町まちなみ・百五銀行友皇子と大海人皇子(後の天武天皇)が皇位を争った672年の壬申(じんしん)の乱の際、大海人皇子が鈴鹿の関を固めたと歴史上初めて文献に登場しています。鈴鹿の関の位置や規模、当時の“関”の様子などははっきりとわかっていませんが、現在の関宿の位置にあったと考えられています。そして、時代は過ぎて、1601年に徳川幕府の宿場制度により、東海道の宿場町として整備され、伊勢神宮の参詣に向かう伊勢別街道、奈良の寺々の参詣に向かう大和街道の二つの街道の分岐・合流する交通の拠点として、江戸時代を通じて栄えていました。

 時代は、江戸時代から明治時代になり、宿場制度が廃止されても、往来する旅人の数はむしろ増加して関宿は栄えていました。しかし、明治23年の関西鉄道(現JR関西本線)の開通によって大きな打撃を受けます。町の産業の中心であった往来稼ぎの商売が成り立たなくなり、その後、国道1号線が旧街道からはずれた位置に通ったこともあり、近隣に生活する人々のための商業地として徐々に静かな町へと変化して現在に至っています。

 江戸から明治初期にかけて、往来の人々で大いに賑わった町が、鉄道そして、車社会で世の中が便利になっていくにしたがって、静かな町へと変貌していく流れを示しましたが、変に乱開発されることなく昔ながらの町並みがそれほど壊されることなく残ってきました。そして、いち早く地元で保存運動が始まったことが現在の風情ある町並みにつながっています。保存とともに関町まちなみ・庵看板、歴史的な町並みを活かしたまちづくりが今も継続的に進められており、昔の風情を堪能しに訪れる方も増えてきているなか、江戸時代の賑わいが再現される日も近いかも知れません。スローライフなる言葉が頻繁に聞かれるようになってきており、ゆっくり時間が流れるような関宿はまさにのんびりくつろげる空間が広がっています。旧東海道の宿場のほとんどが旧態をとどめないなか、関宿は往時の町並みの風情を本当に残しています。

 それでは、関宿の町並み保存事業の取り組みについて紹介していきます。関町では、昭和55年に「関町町並み保存会」が発足して、また同じ年に「関町関宿伝統的建造物群保存地区保存条例」が制定され、200余の家屋・寺社を伝統的建造物群として、保存・修復に力を入れてきています。昭和59年には、関宿の東西両追分けの間1.8キロメートルが国の重要伝統的建造物群保存地区の選定を受けています。その後、昭和63年に、保存地区中心部を無電柱化、関まちなみ資料館をオープン、平成元年に町並み案内ボランティアガイド発足、平成4年に地道風カラー舗装、平成9年に関宿旅籠玉屋歴史資料館をオープン、平成10年に保存地区内の下水道事業に着手するなど積極的に取り組んできています。

 次に、関宿の宿場通(つう)になれる上記でも記載しております“関宿旅籠玉屋歴史資料館”“関まちなみ資料館”を紹介します。当時の宿場町の暮らしを今に伝える2件の資料館は、それぞれ上記の画像で見られる古い町並みのメイン通り沿いにあります。関宿旅籠玉屋歴史資料館は、「関で泊まるなら鶴屋か玉屋、まだも泊旅籠玉屋・中庭まるなら会津屋か」と謡われたほどで、関宿を代表する旅籠・玉屋を資料館として整備したものです。関宿旅籠玉屋歴史資料館は、江戸時代の旅籠の様子を今に伝える貴重な建造物として関町の文化財に指定されており、玉屋で当時使われていた食器などの道具類、庶民の旅に関係する歴史資料、安藤広重の浮世絵などが展示されています。上から4番目の画像は、関宿旅籠玉屋歴史資料館の中庭を写したものです。中庭の奥には、土蔵も現存しています。上から4番目の画像の中庭の右手側に見える建物が客室にあたります。

 もう一つの資料館“関まちなみ資料館”は、江戸時代末期に建築された関宿を代表する町屋建築の一つを資料館として整備したものです。内部には店囲いや箱階段など町屋で使われていた道具類や関宿に関する歴史資料などが展示されています。一番奥の土蔵には、これまでの町並み保存事業による関宿の町並みの移り変わりを写真で一目でみることができます。努力の数々が伝わってきてなかなかの圧巻です。是非、行かれた方は、ご覧なられてはいかがでしょうか。町並み保存事業の歴史が刻まれています。

 今回、関宿を紹介しましたが、東西約1.8キロメートルに続く古い町並みは、ちょうど散策するのにいい距離です。関宿は、亀山宿(名古屋側)から入りますと、まず東追分の「大鳥居」が目に飛び込んできます。この鳥居は、伊勢神宮を遥拝(遥拝(ようはい)とは、遠く離れた所から神仏などをはるかにおがむことの意)するためのもので、鳥居は20年に一度伊勢神宮から移されてきます。東追分は、東海道と伊勢神宮に向かう伊勢別街道の分岐点でもあります。東追分から入り、関宿の風情ある町並みをのんびりと1.8キロほど歩いていきますと、西の入り口(京都側)の西追分につきます。そこには石柱があり「ひだりハいか やまとみち」と彫られています。ここ西の入り口は、大和街道、伊賀街道の分岐点でもあります。一度、皆さんも歩かれてみられてはいかがでしょうか。

 一つ画像の紹介を忘れておりましたが、上から3番目の画像は、関宿旅籠玉屋歴史資料館の前にある建物を写したもので、看板がユニークで趣きがあります。画像上に見られる看板は、庵(いおり)看板と呼ばれるもので、瓦屋根のついた立派なものです。瓦屋根のついた看板の形がユニークなだけでなく、看板に書かれた文字にも工夫があります。看板の文字は、京都側が漢字、江戸側がひらがなで書かれています。画像上の看板は、漢字で書かれてますので、京都側から写したことがお分かりいただけます。なぜ、このような看板になっているかは、旅人が向かう方向を間違えないための工夫だと言われています。古い町並みには、このような風情ある看板の他、虎や龍、鯉などの瓦細工、鶴や亀などの漆喰彫刻、格子、建具など細かい点も丹念に見ていきますとまた新たな発見があることと思います。

 東海道五十三次の宿場町として、これまでに視察レポート上で「日本橋」「袋井・掛川宿」「岡崎宿」「熱田宿」「池鯉鮒宿」「鳴海・有松宿」など、また中山道では「妻籠(つまご)宿」「馬籠(まごめ)宿」など紹介しておりますので併せてご覧いただけましたらと思います。

By Nagura

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