もうじき400年を迎える江戸(東京)の
日本橋を訪ねて 
(日本・東京)

視察日:2002年10月9日

 東京・お江戸の“日本橋”は、来年(2003年)架橋400年の節目を迎えます。慶長8年(1603年)に、はじめて架設高速道路下の日本橋された日本橋は、東海道、中山道、甲州街道、北国街道、日光・奥州街道の5街道の起点であるとともに、終点でもあり、陸路、水路の交差点としてたいへんな賑わいを見せていました。

 “日本橋”というと、東海道五十三次における安藤広重の浮世絵に出てきた木製のアーチ型の日本橋を渡っている人々を連想された方もいらっしゃるのではないでしょうか。私が小学校の頃に、お茶漬け(確か永谷園)のおまけで、安藤広重の浮世絵がついており、数枚集めると東海道五十三次のすべてがそろったカードをもらえたような記憶が残っています。私も御多分に漏れず、何セットか東海道五十三次のカードを貰いました。その中でも、起点である“日本橋”は、最初に出てくるので、強く印象に残っています。

 陸路・水路の交差点として賑わった“日本橋”の陸路に関しては、先月紹介しました新生・丸ビルがオープンした丸の内地区と競い合うように、日本橋地区も再開発が進められており、さらなる賑わいが創出されつつあります。しかし、水路に関しては、明治、大正と時代が移り、舟運から鉄道への転換、そして、昭和(戦後の)の高度経済成長時代における車社会へという流れのなか、水路はほとんど使われなくなり、そのことが、一番上の画像に見られる現在の日本橋の真上を首都高速道路が走る状況となっている少し寂しいような景観につながっていると言えます。

 しかし、一番上の画像と上から4番目の画像において、水の流れ日本橋と三越増床工事が見られる“日本橋川”も、当初は、築地川のように埋め立てられて高速道路になる計画でした。洪水時の水量が多いことから埋め立てはあきらめられ高架となり、何とか水の流れは保たれたわけです。

 一番上の画像に見られる現在の日本橋の石造りのアーチ橋は、明治44年(1911年)に架け替えられ、橋名は最後の将軍徳川慶喜の筆によるもので、まさに江戸から明治の掛け橋と言えます。その日本橋の上に高速道路がかぶさったのは、東京オリンピックの前年の昭和38年(1963年)です。当時は、首都高速道路の完成を東京オリンピックに間に合わすなど“未来東京都市”の掛け声とともに、高度成長時代への勢いもあり反対運動の盛り上がりが見られなかったようですが、さすがに出来上がってから「こんなはずじゃなかった」という声も聞かれたようです。しかし、ここに来て、首都高速道路の耐用年数がきていることから、これを機に日本橋地区を川に親しめる町に戻したいという住民の機運も高まってきており、国土交通省の検討会も今春、日本橋を覆う首都高速道路について、更新する際にはビルの中層部分を貫く高架構造を採用し、沿道の再開発と一体的に整備するよう提言しています。

 近い将来、首都高速道路がビルに隠れるように移動して、首都の名橋にふさわしい、昔ながらの日本橋の情景が見られるかも知れません。江戸時代に、日本橋から江戸城が、そして、富士山が望めたまでとはい日本橋三越かないにしても、本来、自然に見られるのんびりと橋の上にたたずむ人々の姿が戻ってくることと思います。

 何かと、ここ最近、丸の内地区と日本橋地区において、どちらも再開発が進められていることもあり、東京駅を挟んだ形で、ライバルとして取り上げられることが多いです。区としては、丸の内の千代田区対日本橋の中央区、企業群としては丸の内の三菱グループ対日本橋の三井グループなどさまざまな対立軸で取り上げられています。大きな違いとしては、丸の内の居住人口がわずかなのに対し、日本橋地区は居住人口が多い点です。そのことが、土地の権利にも関係してきて、丸の内は大型ビルが多く、大企業が地権者というわかりやすい構造に対し、日本橋は、民家、商店、企業などが密集しており、土地の権利関係が複雑です。丸の内界隈の再開発の状況につきましては、既に紹介しました視察レポート「再開発が進んでいる東京オフィス街・大手町〜丸の内〜有楽町を訪ねて」および視察レポート「東京・丸の内の生まれ変わった“丸ビル”&リニューアルされた東京の北の玄関口“上野駅”アトレ上野を訪ねて」を併せてご覧いただけましたらと思います。

 日本橋地区の再開発の状況をみますと、東急百貨店日本橋店跡のビッグプロジェクト「日本橋一丁目計画」のビル建設が昨年(2001年)7月に着工し、工事現場の横を通ってきましたが、外観の骨組みが現れつつあります。竣工は2004年1月予定で、高さ120メートル(20階建て、建設費用:900億円)のオフィスと商業店舗が入った複合ビルが完成します。上から2番目の画像は、日本橋から銀座方面を写したものですが、日本橋の上を走る首都高の向こうに現場のクレーンが見えます。

 さらに、三越も“新・新館”の工事を今年(2002年)3月に着工し日本橋川と高速道路ています。上から3番目の画像は、三越の日本橋本店を写したものです。三越は、前身の呉服屋「越後屋」以来、この地に本店を構えています。現在、三越では、この本店の写真奥にあたる隣の新館を130億円かけて改築し、売り場面積を全体で2割床増する“新・新館”(地上13階、地下4階、塔屋2階、建物高さ65.5メートル、敷地面積4,008.62平方メートル、延床面積51,021.99平方メートル)を建設中です。2004年11月オープン予定で、視察に行った時は、まだ現在のビルの解体した段階まで進んでいました。さらに、大きなプロジェクトとしては、三越本館の隣(先程の“新・新館”の逆側)に、現在工事が始まっており、2005年9月に室町三井新館ビル(38階建て、建設費用:500億円)が竣工する予定です。

 あと、日本橋地区のまちづくりで注目する点として、学生たちが積極的に関わっていることが挙げられます。日本橋地区には、学生主体によって日本橋地区のまちづくり活動を実施する団体「日本橋学生工房」があります。地元との交流を深め、学生の視点からまちづくりの提言を行う目的で設立され、事務所も日本橋地区内に開設しています。日本橋地区再生委員会からの発案により発足(2002年6月17日設立)し、現在、中央区、東京都、国土交通省の支援を受けて活動しています。メンバーは、芝浦工業大学、東京大学、東京工業大学、日本大学、武蔵工業大学の5大学に所属するメンバーから成っています。2002年10月3日には、学生によるアイデア報告会が三越本店で開かれ、学生たちが実際に歩いて、地元の人たちの話を聞いた上で、日本橋再生に向けてのまちづくりを独自な視点から商店主らの前で発表されました。“着物の似合う街に”“シャトルバスの活用を”などと言った提案がなされたようです。

 学生たちが積極的にまちづくりに関わっている姿は、全国各地で見られます。次の世代を担っていく彼ら彼女らがまちづくりに参画していくことは、学生たちにとって机上の勉強では得られない住民や商業者たちと接する社会的な実教育の場であるとともに、住民や商業者たちにとっても、学生たちの自由で柔軟な発想が、新たな意識改革につながっていきます。このような学生たちと地域の方々との交流、共同作業が、お互いに刺激し合いつつ、生活者の視点に立ったより良いまちづくりにつながっていくことと思います。

 これまでに学生たちが積極的にまちづくりに参画している姿を視察レポートとして、学生たちが商店街で活躍する瀬戸市中心市街地を訪ねて」「学生たちが商店街で活躍する豊橋市中心市街地を訪ねての二つの地域を紹介しています。併せてお読み頂けましたらと思います。また、次回(2003年1月更新予定)の視察レポートでは、岐阜県大垣市のおける岐阜経済大学の学生たちの取り組み(マイスター倶楽部:地域活性化を目的とした学生と市民のコラボレーション(共同)拠点)を紹介する予定です。お楽しみに!!

追記(2004.12.10):上記の三越新館やコレド日本橋がオープンした際の視察レポート「生まれ変わりつつある東京・お江戸の日本橋(コレド日本橋、三越新館など)を訪ねて(2004.11.5)」も併せてご覧下さればと思います。

By Nagura

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