名張藤堂家のふるさと名張市を訪ねて (日本・三重)

視察日:2000年11月12日

 三重県名張市(人口:約8.5万人)で開催された中心市街地の活性化フォーラムの一環として行われましたフィールドワー名張藤堂屋敷クで名張市の古い町並みなど町なかを歩いてきました。コラム「中心市街地活性化フォーラムに参加して」でも取り上げておりますので、併せてご覧いただければと思います。名張市のまちづくりにおける詳細は、コラム上で述べておりますので、ここでは名張市の概要および歴史に視点をあてて紹介していきたいと思います。

 名張市は、大阪のベットタウンとして急速に発展してきたまちです。今回、私は名古屋から行きましたが、1時間半ほどかかりました。それが、大阪からなら1時間ほどの距離です。大阪のベットタウンとして都市化していったのもうなずけます。三重県は行政的には中部圏に属していますが、経済文化は関西圏の影響を色濃く受けており、名張市は特に関西(奈良県)に隣接していることもあり、関西に属しているといってもいいかも知れません。昔、名張は東大寺の寺領であったこともあり、今もお水取りの松明は名張赤目地区でつくられ毎年奉納されています。名張は、関西でも特に奈良の文化を色濃く受けているようです。

 名張は、中世には伊勢参りの宿場町として、江戸期には、名張藤堂家の城下町として栄えました。一番上の画像は、名張藤堂家邸跡の屋敷入り口部分を写したものです。名張藤堂家は、藤堂高虎の養子高吉(たかよし)にはじまります。高吉は、織田信長の重臣丹羽長秀の三男として、1579年近江佐和山城に生まれ、信長の死後、豊臣秀吉の所望により、弟の豊臣秀長の養子となり、その後、豊臣秀長の家来であった藤堂高虎の養子にいたっています。藤堂家は、実子の高次が継ぐと、高吉羊羹町角博物館は家臣の格を甘受することとなり、1636年藩主高次の命により、高吉は名張に入り、名張藤堂家の誕生となったわけです。1600年の関ヶ原の戦いでは、藤堂高虎は豊臣秀吉が没すると徳川家康に味方し、藤堂高虎、高吉ともに戦果をあげています。
 高吉が建てた書院造の武家屋敷は、往時には1083畳の広さを誇っていました。しかし、時代は明治になり廃藩置県で、約5分の1に縮小されています。実際に、三重県指定史跡の名張藤堂家邸跡(近世上級武家屋敷)を見てきましたが、枯山水の庭園はじめ、全国でも珍しい中奥と呼ばれる藩主の私室が残されています。

 以上説明してきましたように、名張は、名張藤堂家の城下町として栄えてきたこともあり、さまざまなお宝が眠っており、古い町並みのところどころに「伊賀まちかど博物館」が整備されています。博物館といっても、料金をとるわけでもなく、店舗そのものであったりすることもあり、散策しながら気軽に立ち寄れる感じとなっています。現在数カ所あり、酒蔵、栗羊かん、川魚(鰻)料理、神社などに整備されています。
 今回、2カ所の「伊賀まちかど博物館」を訪ねてきました。その中の一つが上から2番目の画像の“栗羊かん博物館”の大和屋です。画像から建物そのものから当時の趣きが伝わってくるのではないでしょうか。実際に栗羊かんをいただきましたし、販売もしており購入することもできます。店内には、羊かんづくりの道具や羊かんの製造などに関するものが展示されています。
 もう一つの「伊賀まちかど博物館」は、はなびし庵です。こちらは、名張の老舗酒店「すみた酒店」の中にあなばり川ります。伊賀の地酒などが並ぶ店舗の一角に、江戸時代の錦絵や先々代が日本中を旅して手に入れた珍しい明治初期の観光絵はがきなどが所狭しと並んでいます。また、今回、店舗の奥座敷にもあげていただきましたが、そこには、非常に貴重な大名火消し装束や斎藤拙堂の筆によるといわれる屏風、文久2年との箱書きのある「あらびあ織り」など、幕末に町年寄りをしていた当家に代々伝わるお宝が並んでいます。はなびし庵館長ご夫婦から名張の歴史とともに、お宝の数々の説明をしていただきましたが、本当のお宝は、愛情あふれる語り口で、伝承しているこのご夫婦のような感じがいたします。

 あと、名張と言えば有名なのが日本の滝100選、森林浴の森100選にも選ばれている“赤目四十八滝”ではないでしょうか。訪ねた日は、日曜日ということもあり、ハイキング姿の中年の女性グループが目立ちました。赤目四十八滝は、名張の奥座敷として知られており、伊賀と大和の境を流れる滝川の上流4キロメートルにわたる群瀑で、大小50もの滝があります。往復で3時間ほどで、さまざまな滝の風景、音のハーモニーが楽しめるようです。中でも、不動滝、千手(せんじゅ)滝、布曳(ぬのびき)滝、荷担(にない)滝、琵琶滝の赤目五瀑は特に美しく見どころのようです。

 名張生まれの有名人として、ミステリー作家の江戸川乱歩が挙げられます。怪人二十面相や名探偵明智小五郎などでおなじみではないでしょうか。父親が三重県の役人だったこともあり、名張に赴任していた1894年(明治27年)に生まれていますが、2年後には転勤で久居に移転しています。乱歩にとっては、産湯をつかった町でしかありませんでしたが、生涯に3度名張を訪ねています。特に最初は、作家としてのスランプに陥ったときに訪ねており、まちを散策しています。そのような行動からも、乱歩は名張を心の故郷のように感じていたことと思われます。名張市内には、乱歩生誕碑があるとともに、乱歩が食事をした鰻料理の清風亭(伊賀まちかど博物館の一つ)などゆかりのスポットがあります。

 説明をしておりませんでしたが、上から3番目の画像は、名張市の古い町並みを巾着のように取り囲むように流れている名張川を写したものです。古い町並みがある旧なばり町は、散策するのにちょうど程よいエリアですし、さまざまなお宝もあり、新しい発見、意外な発見もあることと思いますので、機会を見つけて行かれてみられてはいかがでしょうか。今回、私は行けませんでしたが、赤目四十八滝とのセットというのも(少しハードかも知れませんが)いかがなものかと思います。

By Nagura

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