新緑の美しい盛岡市を訪ねて (日本・盛岡)

視察日:2001年5月17日

 岩手県盛岡市(人口約28.3万人)を訪ねて参りました。5月中旬に行きましたが、天候も良く、吹く風も心地よく、新緑北上川と岩手山が眩しいばかりに美しい季節でした。岩手県の県庁所在地の盛岡市は、岩手山を望み、豊かな緑と北上川、雫石川、中津川などの川に恵まれたまさに“杜と水”の都です。一番上の画像は、後ほど紹介しますが水運で栄えた商人の町・材木町商店街(い〜はと〜ぶアベニュー)の北西側にあたる夕顔瀬橋から北上川の流れとともに、岩手山を写したものです。
 岩手山は、標高2038メートルの岩手県の最高峰です。コニーデ型の火山で、西側一帯はゴツゴツした山塊が連なる火山地形になっており、荒々しい頂がいくつも続いています。しかし、東側はまったく正反対で、流麗に裾野が広がっており、その美しい山容は、南部片富士とも呼ばれています。藩政時代は信仰の山として崇拝され、近年は登山コースも整い、多くの登山者に親しまれています。ただし、火山性地震による影響で全登山コースを含み、入山禁止となることもあるようですが、今年は入山が解禁されたというニュースも小耳にはさみました。画像からもなだらかな富士山のような稜線の岩手山を望むことができます。

 岩手県のゆかりの人に、宮沢賢治、石川啄木、原敬などがいます。小学校の頃教わった「雨ニモマケズ 風ニモマケズ 雪ニモ夏ノ暑サニモマケズ 丈夫ナカラダヲモチ 慾ハナク 決シテイカラズ イツモシズカニワラッテイル ・・・・」という宮沢賢治の詩は皆さんも御存じではないでしょうか。また、「風の又三郎」「銀河鉄道の夜」「注文の多い料理店」「セロ弾きのゴーシュ」「グスコーブドリの伝記」など数々の童話も残しています。私も昔、子供の頃、読んだ記憶がよみがえってきて、メルヘンの世界というか賢治ワールドなるものが思い出されました。い〜はと〜ぶアベニュー
 宮沢賢治について、もう少し掘り下げていきますと、明治29年(1896年)に岩手県稗貫花巻町(現在の花巻市)に生まれ、童話は小さい頃から好んで読んでいたようです。盛岡中学を卒業して、盛岡高等農林学校(現在の岩手大学農学部)に首席で入学しています。37歳(昭和8年:1933年)という若さで病死をしてしまいますが、その間に、二千にもおよぶ詩や短歌、百を超える散文や童話などを残しています。また、出身地にある花巻農学校で数年間ではありますが、教師として生徒たちに作物肥料、土壌、英語、代数、化学、農業実習など幅広く教えています。学校では、かなりユニークな授業を行ったようで、生徒たちに人気があったようです。その他、肥料をつくる工場の技師として招かれたり、晩年は故郷の農業と農村の指導に心血を注ぐ日々を過ごすなど本当に休み暇もなく人生を突っ走ったという感じの人です。
 今でこそ宮沢賢治の数々の作品が世の中で有名ですが、生前は無名に近い存在で、それらの作品が世に出ることはありませんでした。死後、早くから彼の才能を認めていた草野心平や高村光太郎などの作家たちによって、賢治の作品が世に出され注目されるようになっていきました。今では、国内外で評価されており、ファンも多く、農民のために身を捧げた献身的な生きざまとあわせて、東北の風土の中で素朴に生きる少年たちと神秘的なファンタジックな世界(作品)が多くの人を魅了しているのだと思います。

 上から2番目の画像は、材木町商店街の大通り商店街通りを写したものです。少し木陰になって見にくいですが、ちょうど画像中央左あたりに見える座っている銅像は、宮沢賢治です。銅像の隣にはベンチもあります。この材木町商店街は、宮沢賢治の世界をイメージした「い〜はと〜ぶアベニュー」と呼ばれています。い〜はと〜ぶアベニューにある光原社はかつて、宮沢賢治の童話集「注文の多い料理店」の出版元であったところです。現在は、岩手県の伝統工芸品を扱う民・工芸品店になっています。ここで出てきました「い〜はと〜ぶ」とは、宮沢賢治による造語であり、国際共通語として知られるエスペラント語で岩手を言い換えたという説やドイツ語で「どこにあるかわからない=ICH WEISS NICHT WO(イッヒ ヴァイス ニヒト ヴォ」から考えられた説などがあります。宮沢賢治の作品の中に多く「い〜はと〜ぶ」が出てきますが、ドリームランドとしての岩手県、理想郷岩手県という意味合いで使われており、如何に岩手の風土を愛していたかが伝わってきます。宮沢賢治は、一番上の画像に紹介しました岩手山にも自分の庭のように何度も登って散策していたようです。それも、登るのがめちゃくちゃ早く、かなりの健脚だったようです。

 上から3番目の画像は、繁華街の大通り商店街を写したものです。大通り商店街は、映画通りなどもあり、若者がけっこう見られました。その他、商店街では、さらに岩手公園を通り過ぎた盛岡バスセンター近くにある肴町商店街も訪ねてきました。肴町商店街は、アーケード型の商店街で主婦層の買い物客が目立ちました。今は、どこの商店街もたいへんで、顧客の呼び込み、固定客づくりに取り組んでいる岩手公園/盛岡城跡ことと思いますが、材木町商店街、大通り商店街、肴町商店街とそれぞれ違った強い個性が感じられただけに、顧客層に合った打ち出し方を期待したいところです。

 上から4番目の画像は、盛岡城跡を整備した岩手公園の堀部分を写したものです。新緑の美しさも画像からご覧いただけるのではないか思います。岩手公園は、大通り商店街を歩いたちょうど端にあります。盛岡城(南部藩20万石の城下町)そのものは残っていませんが、堂々たる盛岡産の花崗岩を積み上げた石垣は残っています。盛岡城は、26代藩主南部信直が三戸から移り、その子利直の時に完成し、その後歴代南部藩の居城となっています。北上川、雫石川、中津川を自然の要害として利用した平山城で、不来方(こずかた)城とも呼ばれていました。

 その他、盛岡では、盛岡名物“わんこそば”も味わってきました。盛岡バスセンター、肴町商店街の近くにある明治17年創業のわんこそばの老舗「直利庵(ちょくりあん)」で食べてきました。南部産のそば粉を使った風味豊かなそばは、のど越しもよく、そばをお椀に入れる時のお姉さんのかけ声の心地よさもあいまって、思わず食べ過ぎてしまった次第です。皆さんも“わんこそば”含め、自然が広がる「い〜はと〜ぶ」の世界・岩手に行かれてはいかがでしょうか。

 先月、2001年6月12日に、宮沢賢治の8歳下の弟である宮沢清六氏が老衰のため岩手県花巻市の自宅でお亡くなりになりました。97歳でした。清六氏は、賢治の没後、遺稿を整理・保存し、賢治全集の編纂や発刊、賢治研究者に資料を提供するなど力を尽くしました。清六氏ご自身も賢治にまつわる文章をまとめた「兄のトランク」(筑摩書房刊)を執筆しています。心よりご冥福をお祈り申し上げます。

By Nagura

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