ボランティアガイドに
ご案内頂いた桑名を訪ねて 
(日本・三重)

2006年10月14日

 三重県桑名市(人口140,884人、51,533世帯、面積136.61平方キロメートル:平成18年11月現在)を訪ねてきました。桑名古い街並み今回、桑名市の案内をボランティアガイド「歴史の案内人の会」の高橋さんにして頂きました。この視察レポートにおける桑名の紹介は2回目で、以前の桑名市のレポート「DENKAプラザ&桑名市を訪ねて」も合わせてご覧頂けましたらと思います。

 案内して頂いたボランティアガイド「歴史の案内人の会」は、桑名の歴史を学びたい人や遠方からの観光客の方を対象に桑名の史跡や名所を案内しています。桑名市の施策としても観光に力を入れています。その背景には、市町村合併があります。桑名市は2004年に旧多度町と旧長島町の2町と合併しました。

 合併前(2003年)の旧桑名市の観光客数は61万人程度に過ぎなかったのが、長島温泉などの総合レジャー施設がある旧長島町や多度大社を抱える旧多度町と合併したことにより、突然「観光都市」に変身しました。61万人程度の観光客数が合併することでいきなり712万人(2004年)になり、伊勢市を16万人(2004年)上回り、三重県下で1位に輝きました。

 さらに桑名市は行動的で、観光で地域の活性化を図ろうと、2005年度から「観光課」を独立させて、2005年夏に「観光プロデューサー」制度を創設しました。大手旅行会社「近畿日本ツーリスト」から年間約800万円で招いて、観光資源を発掘したり旅行会社に売り込んだりしています。また、2005年11月に「観光桑名の六華苑懇話会」を設置し、県内外の学識経験者や旅行会社の幹部らが今後の観光のあり方を探ってきて、2006年3月に、観光の基本方針となる「桑名市観光振興プラン」を策定しました。

 「桑名市観光振興プラン」のテーマは、「川と街道が織りなす交流文化都市」です。木曽三川(木曽川、揖斐川、長良川の3つの川の総称)の河口に位置する立地を全国的にみても極めて恵まれているとし、市内に散らばる観光資源を連動させるため、舟運事業や受け入れ拠点などを整備していくプランです。

 計画の実現には、市民協働による「おもてなしの体制作り」が必要で、ボランティアガイド「歴史の案内人の会」もその一役を担っていく存在です。ボランティアガイド「歴史の案内人の会」の会長さんは「もてなすには、受け入れる側も楽しむことが必要」と指摘しています。また、各地でご当地検定が創設されていますが、桑名市でも「桑名検定」の創設を検討しているようです。

 上から3番目の画像は、桑名市のシンボルロードである八間(はちけん)通沿いにある海蔵寺(かいぞうじ)の前で、ボランティアガイド「歴史の案内人の会」の高橋さんから説明を受けている風景を写したものです。八間通は、1925年に道路ができ、当時、街の中心だった揖斐川沿いと田園地帯にあった桑名駅をつなぐ道路として整備されたものです。今では、桑名駅周辺桑名の八間通りは田園地帯の面影もなく、街の中心となっています。八間通の由来は、名前の通り八間(約14メートル)あったことからきています。また、この通りには、世界一短いと言われた市電(約1キロメートル)が1927年から1944年まで走っていました。

 海蔵寺は、宝暦の治水に関わった薩摩藩士24人の墓所があります。江戸時代中期の1753年(宝暦3年)、幕府は木曽三川の治水を薩摩藩に命じました。御手洗いの普請といわれ、藩の財政を消耗させようというもので、日本最大級の治水工事は難工事を極め多数の噴死者、病死者が出ました。堤防工事は1755年に完成し、現在も「千本松原」として生き続けています。海蔵寺では、毎年5月に薩摩藩士の偉業をたたえて、追悼法要を行っています。

 一番上の画像は、揖斐川河口にある七里の渡し近くの古い町並みが残っている風景を写したものです。画像から見えるのは、船津屋(老舗料亭、江戸時代は本陣を構えた由緒あるたたずまい)の塀で、窪んだところには「歌行燈(うたあんどん)句碑」が建てられています。「歌行燈」は、泉鏡花によって明治43年に書かれた小説で、この中に出てくる「湊屋」はここ船津屋がモデルと言われています。句碑には、鏡花の小説を戯曲化した浪漫派の久保田万太郎が詠んだ句「かわをそに 火をぬすまれて あけやすき」と刻まれています。「かわをそ」は、川辺に住む小動物の「かわうそ」のことで、小説の中に出てきます。

 上から4番目の画像は、「歌行燈句碑」からほんの数分歩いたところにある「七里の渡し跡」の大鳥居を写したものです。この大鳥居の前には揖斐川が桑名の七里の渡し鳥居広がっており、熱田の宮(現在:名古屋市熱田区の熱田神宮近く)から桑名まで海路で7里あったことから七里の渡しと呼ばれています。ここ桑名は、江戸時代、東海道42番目の宿場町として大賑わいを見せました。また、ここにある大鳥居は、これより伊勢路に入ることから「伊勢の国一の鳥居」と称されています。この大鳥居は伊勢神宮のお下がりで、伊勢神宮の遷宮ごとに建て替えられています。ちなみに、このお下がりの鳥居も次の場所へお下がりとして譲られていきます。無駄に捨てることなく、しっかり大切に使われています。

 上から2番目の画像は、明治・大正期を代表する貴重な文化遺産として観光のスポットにもなっている「六華苑(ろっかえん)」を写したものです。六華苑は、以前のレポートでも紹介しておりますが、和と洋が融合した不思議な趣がある建物です。画像からもご覧頂けますが、左半分が日本家屋、そして右半分が洋館で、中ではつながっています。日本家屋の縁側、障子、長い廊下などと洋館のじゅうたん、いす、バルコニーなどのコラボレーションが時代を超えて“粋”が伝わってきます。六華苑は、2代目の諸戸清六の邸宅として大正2年(1913年)に完成したもので、鹿鳴館を設計したイギリス人建築家ジョサイア・コンドルが設計しました。

 上から5番目の画像は、揖斐川につながる堀を写したものです。桑名藩の城下町を取り囲んでいた堀の名残りです。桑名と桑名の堀川言えば、はまぐり(蛤)ですが、昼食では、七里の渡しに近くにある「割烹みくに」で食べてきました。はまぐり会席は3500円からですが、はまぐり定食は1500円(2006年10月現在)でたいへんお徳で、このはまぐり定食で、はまぐりを堪能してきました。お店の人のおもてなし、温かさも伝わってきて、味、接客ともに良かったです。

 あと、前回視察した際になくて、今回新たにあったものとして、「蟠龍櫓(ばんりゅうやぐら)」があります。先ほどの七里の渡し跡にある大鳥居に面するように建てられています。この蟠龍櫓は、かつて東海道を行き交う人々が必ず目にした桑名のシンボルを忠実に復元したものです。中に入ることもでき、実際に我々も中に入って、ボランティアガイド「歴史の案内人の会」の高橋さんにご案内頂きました。安藤広重の浮世絵「東海道五十三次」でも、海上の名城と謳われた桑名を表すためにこの櫓を象徴的に描いています。「蟠龍」とは、天に昇る前にうずくまった状態の龍のことです。龍は水を司る聖獣として中国では寺院や廟などの装飾モチーフとしても広く用いられています。

 今回、前回のレポートから7年ぶりに桑名に行きました。以前行った際は、合併前でしたが、合併後の今回行って、まちが整備されてきている様子が伺えました。特に、揖斐川の河口あたりは、見違えるほどきれいに整備されていました。河口の散策コース、そして、先ほどの櫓など観光に力を入れてきて様子が伺えました。今後、どのようにアピールして回遊性を持たせ、そして、市民協働による「おもてなしの体制作り」をつくっていくのか楽しみです。

 今回、ボランティアガイド「歴史の案内人の会」の高橋さんに懇切丁寧にご案内頂きました。また、食事もご一緒させて頂き、高橋さんの桑名への熱い思いを語って頂き、感銘を受けました。自分のまちに愛着をもって行動している高橋さんにお会いして、まちづくりは“人”なんだなとつくづく感じました。最後に、紙面(ホームページ・メールマガジン上)を借りまして、お礼申し上げます。ありがとうございました。

By Nagura

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