歴史を伝え、芸術が息づく美観地区
の倉敷市を訪ねて 
(日本・岡山)

2005年10月14日〜15日

 岡山県倉敷市(人口474,961人、181,028世帯:平成17年10月末現在、面積353.9平方キロメートル)を訪ねて参りました。大原美術館倉敷には、「商工会議所・観光振興大会2005in倉敷」のフォーラムに参加するために行ってきました。フォーラムの様子は、コラム「観光振興大会2005in倉敷“観光振興で地域力を発揮しよう!”に参加して」で紹介しておりますので、併せてご覧頂けましたらと思います。

 倉敷と言えば、“美観地区”をまず思い浮かべる方が多いのではないでしょうか。倉敷美観地区は、江戸時代の天領(江戸幕府の直轄領、幕府の重要な経済的基盤の領地)の名残りをあちこちにとどめた風情あふれる白壁のまちです。

 倉敷川周辺の美観地区と呼ばれるエリアに続く白壁の街並みは、倉敷のシンボルとなっています。倉敷の歴史を少し紐解きますと、倉敷川の周りに集落が生まれたのは室町時代末期らしいと言われています。倉敷川は高梁川とも通じ、河畔は備中随一の川港として賑わいを見せたそうです。そして、冒頭で述べましたように、1642年に倉敷が天領になると、代官所が置かれ、商人たちが行き交う一帯は、ますます活気づきました。

 倉敷川の河畔に残る足場、常夜灯、雁木などが当時の面影を今に伝えています。今、残っている建物もこの時代の富豪の商家を原形とするものが多いです。塗屋造りの町家、土蔵造りの蔵、倉敷窓、倉敷格子、白漆喰になまこ倉敷川塀など見応えのあるものが残っています。また、美観地区には、実業家・大原孫三郎一族によって、大原美術館などの洋風建築が建てられ、周辺の蔵屋敷と調和して独特の景観を生んでいます。

 一番上の画像は、倉敷川にかかる今橋とその後ろにある大原美術館を写したものです。洋風の大原美術館と観光客で賑わっている様子がご覧頂けると思います。

 大原美術館は、倉敷を基盤に幅広く活躍した事業家・大原孫三郎が前年逝去した画家小島虎次郎を記念して昭和5年に設立した日本最初の西洋美術中心の私立美術館です。日本美術のコレクターでもあった孫三郎は、親しい友人虎次郎の才能と美術に対する真摯な姿勢を高く評価して、虎次郎に渡欧を促し、虎次郎はヨーロッパの美術作品を選び取る作業に没頭しました。虎次郎は、エル・グレコ、ゴーギャン、モネ、マティスなど今も大原美術館の中核をなす作品を丁寧に選び、倉敷にもたらしました。

 ちょうど行った時は、大原美術館が夜間の特別オープンをしており、140点余の名画をゆっくり見てきました。アットホームな美術館で、何より本物の名画を間近で見ることができ、多くの人にいいものに接して欲しいという孫三郎の思いが伝わってくるようでした。現在、大原美術館では屏風祭・琴、現場で子どもたちや社会人と触れあう種々の教育普及活動に加え、IT(情報通信技術)を通じての遠隔教育にも力を注いでいます。さらに、毎夏の美術講座や世界を代表する音楽家を迎えてのギャラリーコンサート等を通じ、諸芸術のフロンティアと広く関わりながら、21世紀に生きて躍動する美術館として、多彩な活動を展開しています。倉敷の芸術、文化の発信基地となっています。

 上から2番目の画像は、倉敷川を写したものです。この倉敷川の界隈が倉敷美観地区で街並みなどが保存されています。倉敷がなぜこのような美しい景観を残すことができたのかを紐解いていきますと、また大原一族が出てきて、大きく関わっています。

 美観地区の街並み保存には、大原孫三郎の跡を継いだ大原総一郎が多大な影響を与えています。昭和13年、ドイツへ留学中に中世の古典的な街並みを残すローテンブルグに魅せられた総一郎は、「倉敷を日本のローテンブルグにしよう」と街並み保存を提唱しました。そして、戦災をまぬがれた倉敷の街並みを文化的な遺産として後世に残すべきことを倉敷市出身の建築家浦辺鎮太郎らに相談し、推進していきました。

 その街並み保存の思いは有志たちに受け継がれ、行政も昭和40年代に入って、本格的に取り組み始めます。昭和44年に倉敷川畔特別美観地区に指定され、昭美観地区ライトアップ和54年には重要伝統的建造物群保存地区として国の選定を受けました。さらに、平成2年には全国に先駆けて背景保存条例を制定し、平成12年には、美観地区景観条例が制定されています。400年近くの歴史を有する倉敷の街並みは、「倉敷を日本のローテンブルグにしよう」という早くから文化的価値に目を向けた先覚者の尽力、そしてその思いを継いだ人々によって、今の倉敷があると言えます。

 ここで、美観地区という言葉に焦点をあてますと、都市計画法では、美観地区とは、市街地の美観を維持するために定める地区のことを言います。具体的には、建築物の色彩や屋外広告を規制する地区であり、美観地区が定められると、この美観地区内では、地方自治法の条例によって、建築物の構造や設備を規制することが可能となります。ただし、美観地区が定められていても、その美観地区内での条例がまだ制定されていないというケースもあります。美観地区が整備されている他で有名なところとしては、国際的な観光都市の京都市があります。約1,800ヘクタールが美観地区に指定されており、市街地景観整備条例によって建物の外観を規制しています。

 さらに、ちょうど行った時、新たな試みとして、倉敷美観地区の倉敷川河畔を中心に夜間景観照明がスタート(2005年10月14日〜)しました。夜間景観照明のスタートは、ここ数年観光客が以前に比べ落ち込んでい美観地区・路地るテコ入れもあるようですが、新たな魅力が増し、観光客増加につながっていけばと思います。点灯時間は、日没から午後9時(4月〜9月:日没〜午後10時)です。上から4番目の画像は、日没間近にテレビ局も中継にきて、点灯風景を写したものです。日没間近ということで、画像はまだ空が明るい状態ですが、特徴的なのは、白壁の建物の2階部分からほのかな明かりが漏れてくるようなところです。

 午後8時過ぎに、再び、先ほど紹介しました大原美術館の夜間特別オープンを見に来て、美観地区を歩きましたが、雰囲気のあるやわらかな照明になっていました。2階からのほのかな明かりが、倉敷川の水面で揺れている情緒がありました。照明は、照明デザインの先駆者である石井幹子さんによるものです。ちなみに、上から4番目の画像の左端に写っている赤いジャケットを来ている女性が石井幹子さんです。照明の確認とテレビのインタビューなど受けていました。

 また、倉敷の秋の風物詩として今年で4回目を迎える「倉敷屏風祭」(2005年10月15日〜16日)もちょうどやっていました。倉敷屏風祭は、伝統を現代によみがえらせたお祭りです。江戸時代、文化文政(1804年〜1829年)の頃の美観地区にある阿智神社の祭礼は、別名「屏風祭」と言われていました。町内の各家が通りに面した格子戸を外し、自慢の屏風を飾り花を活けて訪れる人々をもてなしたと言わえびす通り商店街れています。その心意気を継承しつつ、よみがえらせたのが今行われている「倉敷屏風祭」です。

 人々との心のふれあいや語らいを楽しんだ良き昔の思い出をたどり、その伝統を現代に生かすべく復活した倉敷屏風祭を観光ボランティアガイドの方の案内で堪能してきました。美観地区のなかでも、往時の町並みの姿を色濃く残す、本町から東町にかけての32軒で屏風や各家の家宝の品々が飾られていました。何が素晴らしいかと言えば、屏風や家宝などの品々とともに、地元の方のおもてなしの心です。上から3番目の画像は、屏風の前で琴の演奏が行われている風景を写したものです。玄関口や縁側に多くの方々が集まって演奏に聞き惚れていました。

 上から5番目の画像は、倉敷アイビースクエアから美観地区の倉敷川に抜ける通りを写したものです。上から6番目と7番目の画像は、倉敷駅界隈から美観地区に広がる倉敷の中心商店街を写したものです。駅前の三越が撤退(地権者のお店は残っています)するなど、美観地区に人の流れがあっても、なかなか商店街まで人の流れがきていない状況が伺えました。私は、駅から商店街を通って美観地区に行きましたが、観光客らしき思える人の流れはあまり感じられませんでした。上から7番目の画像をご覧頂きますとわかりますが、白壁風のお店で本当に雰囲気の良い空間が広がっているだけに、もっとうまく観光客を呼び込む方策が欲しいと思った次第です。

 お店を白壁風にしたり、ちょうど歩いたえびす通商店街では、店頭でお茶などをふるまって、イベントが行われていました。今本通り商店街、どこの商店街も空き店舗が増えるなどたいへんな状況ですが、ここ倉敷の商店街では、商売人というか商店街もがんばって努力している姿勢が垣間見れました。商業機能含めたまちづくりを考える時、商売人・商店街ががんばるだけでもダメだし、行政ががんばるだけでもダメで、両方が頑張ってクルマの両輪のように推進していかないと、なかなかまちの活性化につながっていかないものです。商店街と行政の協調性をもった連携によって、素晴らしい美観地区など歴史文化という宝物をもっている倉敷だけに頑張って欲しいものです。

 この素晴らしい景観や文化を色濃く残す倉敷というまちは、大原孫三郎はじめ地域を思う人々によってつくられてきたと言えます。倉敷と大原孫三郎一族の功績は切ってもきれない関係だと思います。最後に、大原孫三郎語録を少し紹介します。大原孫三郎は「従業員の幸福なくして、事業の繁栄はなし」という信念をもっていた。明治39年から昭和14年まで、倉敷紡績(クラボウ)の社長をつとめ、合併・買収等で会社の規模を拡大し、経営の多角化をすすめた人です。工場内に倉紡学校を設立し、従業員教育にもあたりました。クラボウの話題は、コラム「観光振興大会2005in倉敷“観光振興で地域力を発揮しよう!”に参加して」で触れていますので併せてご覧くださいませ。

 また、孫三郎は大原美術館の開設だけでなく、大正2年(1913年)には、倉敷中央病院を開院しました。孫三郎は設計にあたって、「設計はすべて治療本位とすること」「病院くさくない明るい病院にすること」「東洋一で立派な病院をつくること」という指針を出しました。今でも十分、通用する考え方と思います。病院も、孫三郎の時代から90年近く過ぎて、ようやく患者主体の病院や快適な病院づくりに変わりつつあるように思います。さらに、孫三郎は私財を投げ打って、大正8年に大原社会問題研究所を立ち上げました。大原社会問題研究所は、社会問題や労働問題の研究所で、社会科学分野では、日本でもっとも古い歴史をもつ研究所です。現在は、法政大学に移管されましたが、孫三郎の思いを継いで、法政大学大原社会問題研究所として生き続けています。

 孫三郎はじめ、倉敷というまちに強い思いを寄せた人々がいたからこそ、今の素晴らしい景観や文化が残っている倉敷を、その方々の意志を思い浮かべながら、皆さんも倉敷美観地区を散策されてはいかがでしょうか。

By Nagura

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