赤レンガ建物&南吉のふるさと半田を訪ねて(日本・愛知)

視察日:2009年9月27日

 年に数回、一般公開される半田市(人口120,392人、46,991世帯:2009年12月1日現在、面積47.24平方キロメートル)にある赤レンガ建物外観「赤レンガ建物」の内部をボランティアガイドの方にご案内していただき見学してきました。一番上の画像は、赤レンガ建物の外観を写したものです。

 この赤レンガ建物は、明治31年(1898年)建造の旧カブトビール醸造工場で、国内屈指の規模を誇るレンガ建造物です。平成16年に国の登録有形文化財に登録されています。

 全国で残っているレンガ建物は、明治に始まり、関東大震災以降はほとんど建てられなくなりました。レンガ建物は、上記のように日本建築史上でも例を見ないほど短い期間でしか建てられてない上、災害や建替により多くが壊されているため、現存している建物はかなり少なくなっています。

 この半田の赤レンガ建物は、その稀少な中でも、東京駅、横浜新港埠頭倉庫に次ぐ大規模な建造物です。横浜新港埠頭倉庫の横浜赤レンガ倉庫は以前に視察レポートで紹介しており、ちなみ、横浜赤レンガ倉庫と半田赤レンガ建物は、同じ建築家によるものです。明治建築界の三巨頭の一人、妻木頼黄(つまきよりなか)による設計です。

 今となっては、幻となったカブトビールですが、明治時代に、既存4大ビールメーカー(キリン、アサヒ、サッポロ、エビス)に挑戦したのがカブトビールです。半田赤レンガ建物は、半田の先人たちが、大ビールメーカーに立ち向かった心意気と豊富な財力と技術力を有していたことを雄弁に物語っています。半田に本社があるミツカンは全国的に有名ですが、半田という土地柄は、江戸時ボランティアガイド代から現在に至るまで、食酢や日本酒といった醸造業が盛んで、当初はこれらに携わった人々がそのアレンジとしてカブトビールを造り始めたとのことです。

 その先人たちの心意気をつなぐ形で、カブトビールを復刻させたいという思いから「赤煉瓦倶楽部」のメンバーが1年余りかけて、2005年に念願の復刻版のカブトビールができました。赤レンガ建物の一般公開の際や半田市内の数カ所の飲食店で飲むことができます。以前にも飲んだことがありますが、今回も復刻版のカブトビールを飲みましたが、黒ビールのような濃くがあり、なかなか美味で明治の頃のビールの味わいを楽しむことができます。ちなみに赤煉瓦倶楽部は、街の歴史的ランドマークでもある半田赤レンガ建物(旧カブトビール工場)の利活用を調査研究して、魅力的なまちづくりを進めるために活動している市民グループです。

 上から2番目と3番目の画像は、赤レンガ建物の内部を写したものです。年に数回しか内部は公開されておらず、たいへん貴重な体験でした。赤レンガ建物は、冒頭で述べたように明治の人々の喉をうるおしたカブトビールの醸造工場として建設され、その後、譲渡されカブトビールそのものはなくなりましたが、第二次世界大戦中にあっては、中島飛行機製作所の倉庫、戦後はコーンスターチの加工工場となり、100年を超える間、その時代の日本を支えてきており、現在は半田市が保管する形でその姿を残しています。

 上から2番目の画像は、ボランティアガイドさんに建物内部を案内して頂いている様子を写したものです。上から3番目の画像は、現在は展示物が置いてありますが、当時は貯蔵庫でした。画像に見られるコンクリートの壁赤レンガ建物内部は2重から5重の複壁となっています。複壁とは、壁の内部と外部との間に空気層を持たせた壁構造で、断熱効果があり、湿度の変化も少なく保つことができます。

 赤レンガ建物内部を案内されている中で、ボランティアガイドさんが、先ほどの赤煉瓦倶楽部のメンバーも頑張っており、内部を整備して、まちの宝だけに活用してきたいと力強くおっしゃられたのが印象に残りました。内部もさながら、一番上の画像に見られるように本当に外観も和洋折衷のような感じで趣きがあります。画像に見えるのは、木骨の間にレンガを充填した木骨レンガ造でハーフティンバーと呼ばれる造りです。逆に、北側部分は重厚なレンガ造で、一つの建物で複合デザインは稀少ということで日頃は内部に入れませんが、外観を見るだけでも十分見応えがあります。

 また、外観では、戦争の遺跡も見ることができます。1945年(昭和20年)7月15日、3〜6機編成の米軍機「P51(通称ムスタング)」が半田市内で急降下を繰り返し、動く人や大きな建物、目立つ色に容赦なく機銃掃射を浴びせました。赤レンガ建物の北面にはその時の機銃掃射痕が残っています。実際に見てきましたが、いくつもの機銃掃射の痕があり、戦争の遺跡としても貴重な建物でもあります。是非、皆さんも年に数回の一般公開の際に、内部を見学されるとともに、一般公開に合わせて販売される限定のカブトビールを飲まれてはいかがでしょうか。また、一般公開の時でなくても、下記に紹介する新美南吉が歩いた紺屋海道や新美南吉の生家、新美南吉記念館とともに、赤レンガ建物の外観をご覧になられてもいいと思います。

 半田市は、「ごんぎつね」「手袋を買いに」などの童話作家で知られる新美南吉が生まれたところです。2013年には、新美南吉生誕100年を迎えます新美南吉の生家、既に、南吉生誕100年を記念したグッズ・お土産の開発を進める観光プロジェクト「ごんのしっぽプロジェクト」が始動しています。上から4番目の画像は、新美南吉の生家を写したものです。JR主催のさわやかウォーキングも開催されており、多くの人で込み合っていました。南吉は1913年(大正2年)にここで生まれました。南吉の生家は、知多半島を縦断する街道と横断する街道が交わる地点に位置し、生家の前には、常夜灯も残っています。また、石の道標も残っており、そこには「右半田もろさき、左かめさき三州」と彫られています。

 街道つながりでは、赤レンガ建物から半田駅方向に「紺屋海道」という街道が伸びています。紺屋海道は、江戸時代、交通の要所として人々が行き交う賑やかだった街道で、今なお当時の面影が残っています。南吉もこの街道を利用していたと言われています。結核の治療に通った丹羽医院、当時教師をしていた安城女学校に通うためにJR半田駅に行く時や行きつけの喫茶店「カガシヤ」、同盟書林に本を買いに行く時にこの紺屋海道を利用していたようです。ちなみに同盟書林は現在も同じ場所で営業しており、カガシヤは移転はしていますが、新店舗で現在も営業しています。

 上から5番目の画像は、矢勝川の堤に広がる百万本の彼岸花を写したものです。矢勝川は、ごんぎつねの舞台として、兵十がウナギを捕っていた川として登場します。また、矢勝川の向かえには「権現山」と呼ばれる小山があります。南吉が子どもの頃は、この当りにきつねが住んでいて、童話「ごんぎつね」の名の由来になったと考えられています。

 上から5番目の画像から見事な彼岸花がご覧頂けますが、このように百万本の見事になるまでには苦労があったようです。矢勝川の彼岸花1990年(平成2年)に、南吉と同じ半田市岩滑(やなべ)に生まれ育った小栗大造さんが、南吉がよく散歩した矢勝川の堤をキャンパスに彼岸花で真っ赤な風景を描こうと壮大に計画を思い立ったところから始まります。小栗大造さんには、以前お話を伺ったことがありますが、南吉と一緒にこの矢勝川で遊んだそうです。

 小栗大造さんがただ一人で草を刈り、球根をうえる姿に、一人また一人と手伝う人が現れ、やがてその活動は「矢勝川の環境を守る会」へと発展していきます。そして、現在は、矢勝川の堤の東西約2キロメートルにわたって百万本を超す彼岸花が咲き、画像からも見られますが、多くの観光客が訪れています。また、周辺の休耕田にも、菜の花、ポピー、マツバボタン、コスモスなど季節ごとに花が咲き、四季を通して新美南吉の童話の里を彩っています。

 あと、矢勝川の近くには、新美南吉記念館があります。新美南吉記念館は、1994年(平成6年)に「ごんぎつね」の舞台となった中山の地に開館しました。南吉の自筆原稿、日記、手紙、関連図書のほか、童話6作品を再現したジオラマ模型などが展示され、南吉の生涯と文学に触れることができます。

 また、以前に、半田市を紹介しました視察レポート「市民協働による半田市の駅前フェスティバル」、視察レポート「駅前再開発が進んでいる半田市のクラシティ半田を訪ねて」、視察レポート「「蔵の街」知多半島の半田市を訪ねて」も併せてお読み頂けましたらと思います。半田の歴史、文化をより深くご理解頂けると思います。

 新美南吉のふるさとでもあり、赤レンガ建物はじめ山車や蔵のまちなど見どころたくさんの半田を皆さんも一度訪れてみてはいかがでしょうか。その際に、事前に半田市観光協会に予約してボランティアガイドさんにご案内頂くとより理解を深めることができると思います。

By Nagura

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