古都奈良・世界遺産の法隆寺などを訪ねて (日本・奈良)

2004年7月17日

 世界最古の木造建築群が立ち並ぶ奈良の法隆寺と修学旅行でもお馴染みのスポット猿沢池から望む興法隆寺福寺(こうふくじ)界隈を訪ねてきました。観光スポットでもありますので、多くの皆さんが行かれたことがあり、よくご存知のことと思います。また、以前に、奈良の古い町並みが残っている「ならまち」や近代的な「関西文化学術研究都市」を視察レポート「奈良市を訪ねて」で紹介しておりますので、併せてお読み頂けましたらと思います。

 1993年に日本で初めて世界遺産に登録された法隆寺は、聖徳太子と推古天皇が用明天皇の遺志を継ぎ、推古15年(607年)に創建され、天智9年(670年)の火災で伽藍が焼失しましたが、すぐに再建され、8世紀にはほぼ現在の寺観が整ったとされています。日本書記に法隆寺は670年に焼けたという記述があります。一番上の画像は、参道を通り過ぎて、法隆寺の総門というべき南大門(なんだいもん)をくぐったところから、中門(ちゅうもん)越しに法隆寺を象徴する建物の五重塔を写したものです。また、上から2番目の画像は、西院伽藍の境内のなかから先ほどの高さ34メートルの五重塔とその隣にある金堂(こんどう)を写したものです。法隆寺は、五重塔や金堂などがある西院と、夢殿がある東院に大きく分かれており、19万平方メートルにも及ぶ寺域を誇っています。

 東院に夢殿の隣には、中宮寺(ちゅうぐうじ)もあります。今回、中宮寺も見てきました。中宮寺は、草創は諸説ありますが、聖徳太子の母で、用明天皇の皇后である穴穂部間人(あなほべのはしひと)皇后の御所を寺に改めたと言われています。現本堂は、昭和43年に建立されたものですが、堂の周囲にはヤマブキが植えられており、尼寺らしい優雅さと品格が感じられました。また、中宮法隆寺の五重塔寺には、国宝で飛鳥時代の彫刻で最高傑作と言われる半跏の姿勢で右足を左膝にのせ、右手の指が頬に触れかかった優雅な姿の像「本尊如意輪観世菩薩半跏像」があります。また、中宮寺の入り口の掲示板になかなかいい言葉が書いてありました。「施して報いを願わず。受けて恩を忘れず」というものです。

 つい先日、法隆寺に関する新たな発見があり、その話題を少し紹介したいと思います。ちょうど法隆寺を訪ねた二日前の2004年7月15日に、法隆寺の建築部材を年輪年代法で調べていた奈良文化財研究所が、金堂の天井板2枚が667年と668年に伐採されたものだったと発表しました。現存する法隆寺に関して冒頭で少し述べましたが、いろいろな説があり論争が約100年近くも続いています。

 論点として、現在の法隆寺が607年ころの創建時の建物のままとする説と、その後、いったん焼失したため再建したという説があり、論争が続いてきたわけです。冒頭では、後者の説を紹介してあります。今回の調査で、非再建説は、完全に否定され、再建説が確定的になりましたが、次の論点が再建時期です。冒頭でも述べましたが、日本書記の記述を基に670年の火災後に再建したとする説が有力ですが、今回の調査で、今後の議論は再建の経緯が焦点になりそうです。

 金堂については、660年代には建築中だった可能性が出てきました。しかし、伐採後に貯木していたとも考えられ、再建説を覆す根拠と猿沢の池から興福寺することはできないようです。一方、五重塔の調査では、2階の雲肘木が673年に伐採されたヒノキとわかり、火災後の建物と裏付けられました。建築は670年代に始まったと見られています。

 しかし、五重塔の心柱は、2001年の奈良文化財研究所の調査で「594年ごろの伐採」と判明しており、再建・非再建両説とかけ離れた年代のため学会に衝撃を与えました。今回の調査では、再建説を裏付ける結果が出ただけに、心柱の伐採時期の古さだけが依然、謎のまま残ることになりました。心柱の問題をどう説明するかを含め、法隆寺建立の経緯を巡る謎解きは、まだまだ続きそうです。皆さんも今度、法隆寺をみる際は、そのあたりの謎解きも含めてご覧になってはいかがでしょうか。

 上から3番目の画像は、猿沢池から興福寺の五重塔を望んだものです。猿沢池は、その昔、興福寺の放生池として造られました。上から3番目の画像の池越しに見る興福寺の五重塔は、奈良の代表的な景観であり、絶好の記念撮影スポットです。皆さんも修学旅行などで撮った記憶があるのではないでしょうか。当方も修学旅行で、写真を撮ったり、たしか猿沢池近くの宿泊で、夜店にお土産を買いにいった記憶が残っています。

 上から5番目の画像では、興福寺の五重塔を大きく写しております興福寺の鹿が、先ほどの法隆寺の五重塔(高さ34メートル)より高く、高さ約50メートルあり、奈良公園のシンボルとなっています。高さでは、京都の東寺に次ぐ高い塔です。興福寺の五重塔は、東大寺の大仏とともに、奈良を象徴するもので、奈良時代に光明天皇が創建しましたが、その後、たびたび火災にあい、現在の五重塔は、応永33年(1426年)に再興されたものです。

 猿沢池では、中秋の名月に、奈良時代にこの池に身を投げたという女性の霊を慰めるため、うね女祭が営まれます。また、猿沢池の七不思議として、出入りする川がないのに、いつも満々と水をたたえていることなど言われています。猿沢池のほとりには、七不思議の碑があり「むかしむかしから猿沢池には不思議な言い伝えがあります。“澄まず、濁らず、出ず入らず、蛙はわかず、藻は生えず、魚が7分に、水3分”」と彫られています。猿沢池の散策の際に、ご覧になられて、謎解きに思いを巡らせてはいかがでしょうか。

 上から4番目の画像は、興福寺の木陰で休んでいる鹿を写したものです。今年は猛暑であり、行った7月の日も蒸し暑い日で、さすがの鹿も暑さのためか木陰で寄り添っていました。法相宗の大本山として知られる興福寺は、その前身は飛鳥の「厩坂(うまやさか)寺」であり、さらにさかのぼると天智朝の山背国「山階(やましな)寺」が起源とされています。山階寺は、天智8年(669年)に藤原鎌足が重い病気を患った際に、夫人である鏡大王が夫の回復興福寺の五重塔を祈願して、釈迦三尊、四天王などの諸仏を安置するために造営したものと伝えられています。そして、その後、壬申の乱(672年)ののち、飛鳥に都が戻った際に、移建され厩坂寺となり、さらに、平城遷都の際(710年)に、藤原不比等の計画によって移されるとともに、「興福寺」と名付けられました。

 最後に奈良銘産と言えば、「奈良漬け」で、今でも元祖製造法を守り続けている奈良漬けの老舗を紹介いたします。猿沢池からJR奈良駅に続く繁華街・三条通りにある今西本店(元祖奈良漬けの製造元)を訪ねて購入もしてきました。奈良漬けのはじまりを少し紹介しますと、酒造りと関係しています。奈良は日本文化発祥の地であると同時に、日本酒発祥の地であり大和朝廷に始まり、やがて興福寺を中心とする僧坊で酒造りが盛んに行われ、副産物として酒粕に野菜を漬け込んだものが評判を呼び、奈良漬けとして全国に知られるようになりました。

 これから秋の行楽シーズンを迎え、気候もよい時なので、古都・奈良に出掛けてみられてはいかがでしょうか。そして、観光に加え、本場の奈良漬けはじめ、駅弁をお土産にするくらいの人気のある奈良の郷土料理・柿の葉ずしでも召し上がってこられてはいかがでしょうか。

By Nagura

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