名古屋の近代化の歩みを伝える
歴史的遺産の宝庫「文化のみち」を訪ねて
(日本・愛知)

視察日:2010年6月12日

 名古屋の近代化の歩みを伝える歴史的な遺産の宝庫ともいえる「文化のみち」を訪ねてきました。名古屋城から徳川二葉館園に至るエリア一体が「文化のみち」と呼ばれています。「文化のみち」エリアは、江戸から明治、大正へと続く名古屋の近代化の歩みを伝える多くの建物などの貴重な歴史遺産が残されています。そして、建築遺産の保存・活用が進められています。

 江戸時代、名古屋城の南に広がった商業地区に対して、東に伸びた武家屋敷地区が「文化のみち」のルーツと言われています。名古屋城、徳川美術館、建中寺などが大名文化の華やかさを伝えるほか、徳川園、建中寺周辺では庶民の祭りが盛んで、今も山車や祭囃子が大切に守られています。名古屋の山車文化については、後ほど少し掘り下げて紹介していきます。上から3番目の画像は、文化のみちエリアの中でも当時の面影を残している「町並み保存地区」を写したものです。名古屋市内と思えないほどの江戸時代の武家屋敷の風情が感じられるのではないでしょうか。

 江戸時代が終わり、明治維新によって武家が没落していきますが、明治中期には先端産業ゾーンとして活気を取り戻します。時計やバイオリンがこの地で国産化され、豊田佐吉や大隈栄一が機械工業を興しました。また、この地区は、輸出陶磁器の絵付業やガラス工業の中心地にもなりました。発明王の豊田佐吉の実弟の豊田佐助邸も文化のみちエリアに残っています。佐助は、兄佐吉を支えた実業家です。大正12年に建てられた白いタイル貼りの洋館と広い間取りの和館で構成されており、和洋のコラボレーションが大正時代の建築様式を今に伝えています。ちなみに、トヨタ自動車を率いるトヨタグループの創始者が豊田佐吉です。

 文化のみちエリアの見所を画像とともに紹介していきます。一番上の画像は、「文化のみち 二葉館」の外観を写したものです。画像からもご覧いただけるように橦木館の庭、ひときわ目立つオレンジ色の洋風屋根が目をひきます。名古屋城から徳川園にいたる文化のみちの拠点施設となっています。ちょうど我々が館内を見ている時も観光バスから下りてきた観光客が見られました。

 二葉館は、日本初の女優と謳われた川上貞奴(かわかみさだやっこ)と、電力王と称された福沢桃介が大正から昭和初期にかけて暮らしていた邸宅を移築・復元したものです。館内には、貞奴の関連資料を展示するとともに、郷土ゆかりの文学資料の保存・展示を行っています。

 移築前の二葉邸は、ここから少し離れた文化のみちエリアの北端の東二葉町にありました。創建当時は、2,000坪を超える敷地に建てられた一番上の画像の和洋折衷の建物は、その斬新さや豪華さから「二葉御殿」と呼ばれ、政財界人や文化人の集まるサロンとなっていたようです。館内も復元されており、実際に館内も見てきましたが、当時のステンドグラスの窓の数々や建物内部の電気装備が行き届いているなど当時の贅を尽くしています。

 上から2番目の画像は、「文化のみち 橦木館(しゅもくかん)」の庭園を写したものです。橦木館は、陶磁器商として活躍した井元為三郎が、大正末期から昭和初期に建てた当時の様子をよく伝える邸宅です。大きく区割りされた敷地に和館、洋館、東西の二棟の蔵、茶室、庭園が残されています。平成8年に名古屋市有形文化財、平成20年3月に景観重要建造物に指定されています。

 文化のみちエリアは、冒頭で述べたように江戸時代の武家屋敷町がルーツで、約600坪に区割りされていたようです。町並み保存地区の通りこの広い敷地と陶磁器の生産地で有名な瀬戸・多治見の両街道や堀川にも近く、船積みにも便利だったことから、明治半ばには陶磁器の絵付け・加工業者などが集まるようになったようです。昭和初期には、文化のみち界隈(名古屋市東区界隈)に600をこえる上絵付け工場があり、最盛期には、日本で作られた輸出用の陶磁器の7〜8割が、この地域で生産(絵付け加工)されていました。

 先ほどの二葉館と同様に、橦木館の洋館には、ステンドグラスが贅沢に使われており、為三郎は輸出陶磁器の商談を行うため、多くのバイヤーを招待していたと言われています。現在、橦木館は、時間貸しで各部屋を利用することができます。ちょうど見に行った時も寄席をやるようで準備していました。落語会、茶の会、囲碁、三味線紙芝居、オカリナコンサート、絵画展などさまざまな催しが行われ、市民に開放されています。単に保存するだけでなく、しっかりと建物を守りながら利用されています。

 上から4番目の画像は、旧春田鉄次郎邸の門からの入り口部分を写したものです。冒頭で紹介した旧豊田佐助邸の隣にあり、旧豊田佐助邸とともに、大正時代の建築様式を今に伝えています。陶磁器貿易商として成功し、太洋商工株式会社を設立した春田鉄次郎が武田五一に依頼し、造った住宅と言われています。この春田邸は、昭和22年(1947年)から昭和26年(1947年)まで米軍第五航空隊司令部により一時接収された経緯もあります。現在は、創作フランス料理「デュボネ」として営業している部分と見学者用に開放されている部分があります。ここも単なる保存ではなく、レストランとして活用されているいい例と思います。

 上から5番目の画像は、「文化のみち 百花百草」の庭園を写したものです。百花百草は、大正9年(1920年)に建てられた書院・茶室・土蔵を改修春田鉄次郎邸レストランし、多目的ホールを新築して開館しました。徳川美術館所蔵の百花百草図屏風(重要文化財)にちなんだ庭園は四季を通じて楽しむことができます。また、ホールでは、庭園を見ながらお茶やピアノ演奏を楽しめます。今回、ちょうどピアノの生演奏をやっており、お茶とともに演奏を聞きながら庭園の眺めを楽しんできました。ホッとするやすらぎ空間です。

 最後に、武家屋敷のところで触れました名古屋の山車文化について少し掘り下げていきます。江戸時代から戦前にかけ、名古屋には、からくり人形を載せた数多くの山車がありました。江戸時代以来、名古屋東照宮と若宮八幡社、那古野神社(三の丸天王社)の祭礼は「名古屋三大祭り」と呼ばれ、山車が盛り上げていました。しかし、太平洋戦争の空襲で多くが焼失し、市内に現存するのは約30両と言われています。

 名古屋市に現存する東区、中村区、西区、緑区などの山車は名古屋市の有形民俗文化財に指定されていますが、すべてが引きそろえられる機会はありません。現存する山車のうち5両が今回、紹介している文化のみちエリアの東区にあります。毎年6月の第一土曜・日曜日に行われる天王祭では、山車5両が町内を練り歩き、初夏の風物詩として親しまれています。また、10月中旬に行われる名古屋まつりや東区区民まつりでも5両の山車が参加します。

 山車が残る地区の中には人口が減り、後継者に悩むところもあります。そのような状況の中、2008年に各地で力を合わせて山百花百草の庭園車文化を守り、後継者を育てようと保存会関係者によって「名古屋曳絆(ひきづな)会」が結成されました。名古屋曳絆会のメンバーは、戦災があったとはいえ、名古屋は山車の本家本元、いつか市内すべての山車を一堂に揃えたいと話しています。

 また、現在、名古屋の山車にスポットを当てたドキュメンタリー映画の自主プロジェクト「名古屋活動写真プロジェクト」が進行しています。名古屋活動写真プロジェクトでは、名古屋の山車の伝統と魅力を後世に残す目的で山車の歴史、エピソード、祭りの様子、取り組みなどをまとめたドキュメンタリー映画を2010年度内に制作する予定です。45分〜60分のDVD作品に仕上げ、2000枚を制作する予定で、行政、博物館、資料館、学校等に無料で配布する予定です。

 今回、紹介した文化のみちエリアは、どんどん風景が変わっていく名古屋市内において、時間が止まったような都会のオアシスのような場所です。皆さんも一度、江戸文化や近代化の明治、ロマン香る大正に想いをはせながら「文化のみち」を散策されてはいかがでしょうか。

By Nagura

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