松尾芭蕉の結びの地・大垣市を訪ねて (日本・岐阜)

2006年8月19日

 松尾芭蕉の結びの地として知られている岐阜県大垣市を訪ねてきました。今回は、名古屋の異業種交流会・TMCのメンバーとともに松尾芭蕉の碑行ってきました。また、大垣は以前にも視察視察レポート「学生たちが商店街で活躍する大垣市中心市街地を訪ねて」で紹介しております。合わせてご覧頂けましたらと思います。

 前回の視察レポートでは、学生たちに焦点をあてて、中心市街地商店街の活性化の取り組みについて紹介しました。今回は、文化・歴史という視点からふるさと大垣案内の会の大垣観光ボランティアガイドの後藤さんに大垣駅界隈を1時間半にわたってご案内頂きました。今回の視察レポートでは、ボランティアガイドの方にご案内頂きましたところを芭蕉の旅に思いをはせながら紹介していきたいと思います。

 まず、芭蕉の旅に思いをはせる前に、大垣市の地理的および歴史的な背景を見ていきます。大垣は、濃尾平野の北西部にあって伊吹山を背景にし、揖斐川に注ぐ大小の支流が形成する水郷に囲まれています。大垣は水の都とも呼ばれており、水に恵まれ、良質な湧き水(地下水)があり、後ほど紹介しますが、おいしい湧き水(地下水)を飲んできました。

 大垣の歴史は古く、弥生式土器や銅鐸(どうたく)が出土し、数多くの古墳や東山道・美濃国分寺・東大寺領大井荘等を拠点に古代から文化が発達していました。ここ大垣は、慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いでは、徳川家康と石田三成が前哨戦を交えています。上から4番目の画像は、大垣城を写したものです。関大垣の堀ヶ原の合戦の際に、石田三成が入城し、その後東軍によって落城し、そのときの逸話は「おあむ物語」として残っています。

 大垣城は江戸時代に入り、1632年(寛永12年)に戸田氏鉄が城主になって以降、明治に至るまで大垣藩戸田氏の居城となりました。戸田氏鉄が入封以後、大垣は、産業の奨励・治水・文教政策に力を注ぎ、十万石の城下町として栄えました。貞享・元禄期には藩士にも俳諧を嗜む者が多く、現在市内各地に関係句碑も建っています。大垣城そのものは明治に入っても破却を免れ、1936年(昭和11年)に天守等が国宝に指定されています。しかし、1945年(昭和20年)7月29日の空襲により天守が焼失し、現在の天守は1959年(昭和34年)に再建されたものです。

 本題の俳諧・松尾芭蕉(1644年〜1694年)について触れていきます。松尾芭蕉は、貞享元年(1684年)から元禄4年(1691年)にかけて4回、大垣を訪れています。なかでも、世に名高い約5カ月にわたって漂泊の旅をした「奥の細道」は、元禄2年(1689年)の秋にここ大垣で旅を終えました。奥の細道は、芭蕉が弟子の河合曽根を伴って、江戸の深川を出て、日光、松島、平泉まで北上し、その後、日本海に抜け、酒田、越後、加賀、敦賀と南下して、大垣で終えたことから結びの地と言われています。その距離は、なんと約600里(2400キロメートル)です。市内のいたるところに芭蕉と大垣俳人の足跡が残されています。

 一番上の画像は、ボランティアガイドの方に芭蕉の句碑の説明を受けているところを写したものです。この句碑には、本合海(山形大垣の湧水県新庄市)で詠んだ有名な「さみたれをあつめて早し最上川」と刻まれています。大垣城を囲むように流れる外堀水門川には、奥の細道巡りが体験できるように、芭蕉の句碑が20建っています。

 「奥の細道」全行程約2400キロメートルを愛宕神社(錦町)から奥の細道むすびの地(船町)までを外堀水門川沿い2.2キロメートルに見立てています。句碑は、奥の細道の旅で芭蕉が詠んだ句から代表的な20句を選び、句碑と句が詠まれた土地の説明板が立てられています。20句以外に、始めと結びの句「矢立初め」「蛤塚」を合わせると22句で芭蕉の足跡をたどることができます。

 奥の細道の旅立ちの句「矢立初め」は、親しい人々に見送られた折りに詠んだ句で「行春や鳥啼魚の目ハ泪」と詠んでいます。また、奥の細道の旅を無事終え、結びの地・大垣で詠んだ句「蛤塚」では、「蛤のふたみに別 行秋そ」と詠んでいます。この句は、出発の句の「行春や・・・」と呼応しています。芭蕉は、長旅の疲れを大垣でいやした後、ここから舟で桑名に出て、伊勢に向かいます。ここ大垣は、旅の終点とともに、新たな出発の地でもあります。

 上から3番目の画像は、大垣八幡神社の良質の湧き水(地下水)を飲んでいる風景を写したものです。行ったのが夏の暑い時期だけに、冷たい湧き水はうまかったです。大垣八幡神社は、奈良時代の昔から東大寺領であっ大垣城た大垣はじめ安八郡十八か村の総氏神として祀られてきました。例大祭は大垣祭りと呼ばれ、華やかな祭典が繰り広げられ、庶民文化のシンボルとして親しまれる13両の山車(やま)のうち、戦火に残った9両と復活した山車(現在焼失した山車を復活させ全11両)がけんらん豪華を誇って祭りを盛り上げて賑わっています。

 大垣祭りは350年余の伝統を誇る城下町・大垣の初夏の訪れを告げるお祭りです。毎年5月15日に近い土日に行われています。先ほど紹介しました山車(やま)が雅びやかな時代絵巻を繰り広げます。また、600店以上の露店が軒を並べ祭り気分を盛り上げています。昭和46年には、県重要民俗資料指定にもなっています。

 上から2番目の画像は、外堀の水門川を写したものです。芭蕉は、この水門川を舟で下って桑名に行った訳です。上から2番目の画像に見える木々は桜で、春は咲き誇る桜に目を奪われます。水辺の舟の上から眺める桜もまた趣きがあるそうです。水門川は、今でこそゆったりとした時間が流れていますが、江戸時代は物流の拠点でたいへん賑わっており、明治時代に入ってからも大垣と桑名を結ぶ輸送経路として人や物資の往来が盛んで、昭和初期には年間約1万もの舟が行き来していました。

 また、水門川沿い含め市内各所に、俳句を投句する投句箱が設置されています。投句箱の横には、投句記載台があり、その場で感じたことを詠んで投句することもできます。大垣市文化事業団が手がける「十六万市民投句」では、市内外を問わず、広く作品を募集しており、月約500〜600の投句大垣の商店街があるそうです。応募のあった作品のうち、優秀句は作品集に掲載されるそうです。

 上から5番目の画像は、大垣駅界隈の商店街を写したものです。ここの商店街には、大垣名物の“水まんじゅう”のお店が複数あります。我々もその一店で食べてきました。そこの水まんじゅうは、かき氷の中に水まんじゅうを入れたユニークなものでなかなかの美味でした。

 東海エリアで放送されている板東英二の「そこ知り板東リサーチ」でも紹介されたそうです。冒頭で水の都と紹介しましたが、この清らかな名水が“水まんじゅう”を生みました。“水まんじゅう”は、明治の初めに大垣市俵町の菓子屋・上田文七によって考案され、以後100年以上にわたって大垣市民の夏のおやつとして親しまれています。ちなみに“水まんじゅう”は夏の風物詩であり、季節商品(4月末〜9月中旬)となります。

 皆様方も一度、松尾芭蕉のむすびの地・大垣市を訪ねてみられてはいかがでしょうか。今回、大垣市を訪ねて、観光ボランティアガイドの後藤さんにご案内いただきました。最後に、紙面(ホームページ・メールマガジン上)を借りまして、お礼申し上げます。ありがとうございました。

 観光ボランティアガイドは、数名のグループから団体まで対応して頂けます。案内料金は無料ですが、ガイドに要する交通費、食事代、入場料などは利用者負担となります。今回、観光ボランティアガイドの後藤さんには、まち案内後に、ご一緒に食事会にも参加頂き、ボランティアガイドのやりがいや大垣の歴史のうんちくなど楽しい話を伺うことができました。まち歩きとともにボランティアガイドの方との交流も楽しいものです。

By Nagura

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