熱田神宮界隈の史跡を訪ねて (日本・名古屋)

視察日:1999年9月13日

 数々の史跡が残っている熱田神宮界隈(愛知県名古屋市熱田区)を訪ねて参りました。熱田界隈は、古事記(7世紀後半〜8世紀にかけて編纂された)にも記七里の渡しイメージされた熱田神宮を中核に、神話時代以来からの長い歴史を持っています。江戸時代には、熱田神宮とともに、東海道五十三次の宿場「宮の宿(熱田宿)」として、今の現状からは想像もできないような、にぎわいを見せていました。当時は、尾張藩の支配下にあり、奉行所がおかれていましたが、町民による自治意識が強く、独立独歩の気風が漂っていたようです。そのことは、江戸時代が終わり、明治に入って廃藩置県が施行された後にも現われています。明治維新後もしばらくは、名古屋市に属さずに、明治末に近い明治40年(1907年)にようやく名古屋市に編入され、熱田区となっています。熱田神宮界隈は、今でこそ、名古屋市に入っていますが、たかだか200年余の新興都市・尾張名古屋とは格が違うんだという気概は、深いところでは、今も残っていることと思います。

 今回訪ねました熱田神宮界隈は、名古屋の繁華街・栄から南へ5キロメートルほどのところに位置します。正月こそ初詣で、名古屋っ子はじめ、近隣から多くの人々が、“熱田さん”“宮”の名で親しまれている熱田神宮に訪れますが、普段は、お祭りなどの時を除いて、至って静かなところといった感じです。雰囲気的には、江戸往時のにぎわいの面影を見つけるのは難しいかも知れませんが、史跡は多く残っています。
 しかし、昔も今も変わらないのが、交通の要衝となっているところです。戦後の都市計画で国道1号線や国道19号線などの道路が拡幅され、非常に交通量の激しい幹線道路(公共機関では、JR、名鉄、地下鉄なども通っています)が走っています。また、このことが、以前の町並みを分断させてしまった要因にもなっています。激しい幹線道路から一歩入ると「宮の宿」以来の寺社や史跡が点在してい熱田神宮イメージるだけに、今後の熱田界隈のまちづくりにおいては、幹線道路で分断されてしまった町を、ソフト面ハード面含め、どうつないでいくかにかかっていると言えます。
 今回の視察レポートでは、分断されてしまった町をどうつないでいくかという視点は、またの機会に譲りまして、まずはこの町の魅力を知っていただくために、個々のポイントを紹介していきます。

 今回、名鉄(名古屋鉄道)を使って神宮前駅に降り立ちました。神宮前駅前に広がっているうっそうと繁った緑の森が、熱田神宮です。上から2番目の画像が、その熱田神宮の本宮の社を写したものです。熱田神宮の周りには、交通量の激しい幹線道路が走っているのにもかかわらず、ひとたび境内に足を踏みいれますと、静寂な世界が広がっています。この日は、少々雨が降っており、少し煙った感じがよりいっそう千年を越す大木に包まれた境内に、神聖な感じを漂わせていました。また、雨にもかかわらず、お参りにきている方がけっこういらっしゃいました。私もせっかく熱田神宮まで来ましたので、いろいろと祈願してきました。その甲斐あってか、不思議なことに熱田神宮をお参りして出る頃には、急に太陽の日が差し、晴れてきました。けっして、晴れて欲しいとは祈願した訳ではありませんが、まあ拡大解釈すれば、“人生にも晴れ間がみえてくる”ということかも知れません。

 祈願という点で見ていきますと、今から400年以上前にここ熱田神宮に一人の人物が訪れています。その人物とは、織田信長です。誰が見ても劣勢と言われた今川義元の大軍を天才的な智略・戦略で“桶狭間の戦い”において勝利をおさめています。信長は、清洲城から出陣信長塀イメージし、桶狭間に向かう途中で、この熱田神宮に立ち寄って戦勝を祈願しています。そして、その時に信長は「万が一、勝利したら塀を寄進する」と社頭で誓っていざ戦いへと向かったのです。その“万が一”がおこり、戦いに勝った信長は、約束通り塀を寄進しています。上から3番目の画像が、その信長が寄進した塀を写したものです。熱田神宮内の本宮に向かう手前にあります。この塀は、信長塀と呼ばれており、土と石灰を油で練り固め、瓦を厚く積み重ねた築地(ついじ)塀となっています。三十三間堂の太閤塀、西宮神社の大練塀と並ぶ日本三大土塀の一つとして知られています。

 熱田神宮を後にして、南の方へ下り、国道1号線を渡った現在の伝馬町、神戸町辺りが、当時、東海道一の大宿だった「宮の宿(熱田宿)」があったところです。当時の東海道を実際に歩いてきましたが、現在は、静かな町並みが続いています。東海道という看板や歩道のタイルに東海道の絵が描かれていたり、観光案内板の表示があったりと整備はそれなりに進められています。しかし、当時の様子を思い描けるだけの古い建物は寺社を除いてほとんど現存してなく、かなり頭の中でイメージしていかないと江戸往時の雰囲気を味わえない部分はあります。
 宮の宿(熱田宿)は、東海道五十三次の第一宿・品川から数えて41番目の宿場にあたります。江戸からの距離は88里35町7間(約360キロメートル)で、熱田神宮をひかえていたことから「宮の宿」と呼ばれ、後で説明しますが、桑名(現三重県桑名市)への海上七里の渡し場でもありました。また、脇街道「佐屋路」「美濃路」の分岐点であり、尾張徳川の城下の表口でもあったことから東海道随一の規模を持った宿場に発展していったと思われます。当時の旅籠(はたご)屋の堀川イメージ数は、248軒を数えており、東海道一で、ちなみに次は桑名の120件、岡崎の112軒と続いていますが、2位以下を大きく引き離しており、ダントツだったようです。当時、東海道一のにぎわいを見せたところが、時代は移り変わったとはいっても、現在の姿を見ていますと、少し寂しいものがあります。

 旧東海道を伝馬町から神戸町方面に途中で直角に曲がりますが、歩いていきます(国道247号線をまたぎます)と、堀川と新堀川が合流するところに行き着きます。そこが、当時、桑名宿へ向かう「七里の渡し」があったところです。当時は、ここから海が広がっていたのですが、現在は名古屋港の埋め立てが進み、海までは、はるかかなたといったところです。また、当時は海岸沿いには大きな建物がなかったこともあり、遠く西の方に、桑名城が見えたそうです。一番上の画像が、七里の渡しの常夜燈(画像手前)と時の鐘(画像奥)を写したものです。現在、この辺り一帯は、「宮の渡し公園」として整備されており、船着場から毎月第4日曜日に「風流屋形船」が出ています。風流屋形船は、当時のように桑名までは行きませんが、2時間ほどかけてこの辺りを遊覧します。ちなみに、乗船料、船会席、飲み物付で大人一人6,000円(1999年9月現在)です。

 少し余談になりますが、熱田から桑名まで海上を利用したのは、熱田から桑名までの間の大きな河川を3つ(木曽川、長良川、揖斐川)も渡らなければならず、それを避けたわけですが、そもそもなぜ、このコースを東海道に選んだのかというのが専門家の間でも不思議がられています。現在の東海道本線が通っている大垣、関ヶ原のコースの陸路を結んでもよかったわけです。なぜ陸路のコースをとらなかったかという一つの説として、関ヶ原の戦いで西軍(徳川の敵)についた諸大名に、江戸参府のたびごとに幕府への密かな恨みを思い出させないように、徳川家康ならではの深謀遠慮ではなかったかと言われています。

 上から4番目の画像は、堀川を写したものです。今月(1999年9月)初めには、悲願の試験通水が行われ、堀川の浄化運動は市民を巻き込んで盛り上がってきています。現在の堀川は流れがないため、ヘドロが川底にたまりやすく、淀んでいるため、庄内川から水を引き込むことによって、川の流れをつくりだし昔のようなきれいな堀川に戻そうというのが狙いです。今回の試験通水は、わずか2日間でしたが、23年ぶりの出来事でした。伊勢湾では、海苔の養殖、アサリ、ハマグリなどの漁などが行われており、川底にたまっているヘドロが流れ出し、養殖、漁に被害が及ぶのではないかという声も挙がっています。まだまだ解決していかなければならない問題はありますが、それぞれの立場の方々との話し合いも進められており、着実に動き出していることはたしかです。きれいな堀川によみがえる日が待ち遠しいものです。

 「七里の渡し」近くには、ひつまぶし(うなぎの蒲焼を細かく切ったもので3度楽しめる)で有名な蓬莱軒の本店・蓬莱陣屋もありますので、ひつまぶしの味を堪能しながら、この辺りの史跡を散策されてみてはいかがでしょうか。これからの秋たけなわの季節(シーズン)、過ぎ行く風もさぞかし気持ちがよいことと思います。ちなみに、蓬莱軒は、創業明治6年の老舗で、うまさとともに、美しい上町言葉の名古屋弁を話されるおかみさんが有名です。

 今回、熱田神宮界隈を訪ねるにあたりまして、神宮前近くの会社にお勤めの井上さんに情報をいただきました。最後に、紙面(ホームページ・メールマガジン上)を借りまして、お礼申し上げます。ありがとうございました。

By Nagura

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