歴史のある一宮市の浅野公園で行われた
第35回つつじ祭を訪ねて
(日本・愛知)

視察日:2012年4月29日

 愛知県一宮市(人口386,722人、158,122世帯、面積113.91平方キロメートル:平成24年7月1日現在)の浅野公園で行つつじ祭のツツジわれたつつじ祭を訪ねてきました。つつじ祭は、毎年春に行われており、その歴史も長く、今年で35回目を迎えています。
 つつじ祭は、浅野公園の各種のつつじの美しさを市民や観光客に観賞していただくとともに、浅野公園ゆかりの名士の道徳をしのび観光開発の一助と地域産業振興ならびに文化の向上に寄与することを目的としています。このように、かなり盛りだくさんの目的が網羅されています。

 今回、浅野公園を取り巻く商店街の浅野商店街振興組合の理事長さんでなおかつ今回のつつじ祭を主催している「一宮つつじ祭推進協議会」の会長さんでもある村上さんにご案内いただきました。上から4番目の画像は、浅野公園内を村上さんにご案内頂いている様子を写したものです。まずは、今回のメインの「つつじ」そのものを見て行く前に、つつじ祭の会場となっている浅野公園の歴史を紐解いていきたいと思います。

 浅野公園は単なる公園ではなく、戦国時代の武将の浅野長勝とその子浅野長政の邸宅跡地を公園として整備したものです。浅野公園は、今でも邸宅の名残りがところどころに残っており、つつじがより一層映える「庭園式公園」となっています。浅野公園は、周囲を濠(ほり)で囲まれており、築山、池、庭石、樹木、藤棚、生垣等が配置され起伏に富んでいます。上から5番目の画像は、公園の周囲の濠を写したものです。周りは住宅地ですが、公園内は緑豊かで濠の水面に木々が映っているのがご覧いただけると思います。浅野公園の広さは、約9,200平方メートルですが、小山、濠など変化に富んでおり、面積以上の広さというか奥深さが感じられる公園です。

 屋敷跡が公園になったいきさつを少し紹介しますと、浅野家の屋敷跡を何とか保存しようと地元住民が中心となって立ち上がって、1917年(大正6年)に浅野史跡顕彰会が組織され、公園として保存されることとなりました。ちなみに、顕彰(けんしょう)とは、隠れた善行や功績などを広く知らせること。広く世間に知らせて表彰することという意味です。地域住民が立ち上がって公園として保存されるきっかけをつくり、そして、浅野公園は、その後、1950年(昭和25年)からは、一宮市によって管理されています。

 浅野公園では、赤、白、ピンクなどの色とりどりのつつじを1,000本株以上みることができます。今年のつつじ祭は、例年ならば見頃を迎えている時期ですが、今年は少し開花が遅れており、見頃がもう少し後で、残念ながら満開の見事なつつじを見ることが出来ませんでした。一番上の画像は、つつじを写したものですが、満開とはいつつじ祭のステージきませんが、所々にピンクや白いつつじの花がご覧いただけると思います。

 しかし、つつじにもいろいろと種類があり、上から3番目の画像に見られる「ホンキリシマツツジ」は、見事に咲いており、鮮やかな赤い花がご覧いただけると思います。ホンキリシマツツジは、常緑性のツツジの中でも、最も早く開花する品種で、細かな葉を付けた枝に、深赤色の花が埋め尽くすように咲き、情熱的な赤がとても印象的なツツジです。

 このホンキリシマツツジは、単なるツツジではなく、京都の高台寺から寄贈してもらったもので、高台寺塔頭の圓徳院に明治時代より植わっていたのを株分けしたものです。また、上から3番目の画像におけるホンキリシマツツジが周りを囲むように中央にある背の高い木は、シロヤブツバキです。このシロヤブツバキも単なるツバキではなく、高台寺から寄贈されたもので、高台寺開創当時より、豊臣秀吉公の正室であった北政所ねね様が愛されたシロヤブツバキが高台寺に現存しており、その子孫にあたります。
 少し高台寺そのものについても触れますと、高台寺は、豊臣秀吉没後、その菩提を弔うために正室のねねが慶長11年(1606年)に開創した寺です。高台寺の造営に際して、徳川家康が当時の政治的配慮から多大な財政的援助を行ったこともあり、寺観は壮大を極めたといわれています。

 それでは、なぜ、浅野公園にねね(北政所)ゆかりの高台寺のホンキリシマツツジとシロヤブツバキが寄贈されたのでしょうか。そのあたりを紐解いていきたいと思います。その他、浅野公園内にはねね関係で、浅野公園内の築山に、ねねの歌碑も建てられています。

 冒頭で、浅野公園は浅野長勝とその子浅野長政の屋敷のあったところと述べましたが、豊臣秀吉の正室となったねねは、浅野長勝の養女でした。また、浅野長政は、浅野長勝の娘“やや”の婿養子として浅野家に迎えられました。ですから、ねねから見れば、浅野長勝は義理の父であり、浅野長政は義理の弟にあたります。ねねの義理の弟ということもあり、浅野長政は、豊臣秀吉の5奉行の一人となり、浅野氏繁栄の基礎を築きました。また、その後、時代は過ぎて、忠臣蔵で有名な播州赤穂の浅野氏はその支流にあたります。

 上から2番目の画像は、公園内のステージで、Team一豊(チームかずとよ)によるよさこい鳴子おどりの模様を写したものです。Team一豊の一豊とは、山内一豊公のことを指しています。山内一豊は有名でご存知の方も多いと思いますが、遠江国掛川城の城主そして、徳川の時代になり、掛川から土佐に移封となり、土佐国高知城の城主となっています。
 山内一豊は、織田信長、豊高台寺のツバキとツツジ臣秀吉、徳川家康に仕え、戦乱の時代を駆け抜けてきた人物です。山内一豊の妻のまつも夫を「内助の功」で助けた賢妻として良く知られておりご存知の方も多いと思います。ちなみに、幕末の風雲児として新たな時代を切り開いた坂本龍馬は、土佐藩士です。土佐藩初代藩主で高知城を築いた山内一豊がここ一宮市木曽川町で生まれました。山内一豊の生誕地でよさこい鳴子踊りを楽しむチームということで、チーム名が「Team一豊」となったようです。

 この他、つつじ祭の会場では、ミス七夕・ミス織物をモデルとして写真コンテストの開催やいちみん(一宮マスコット)や尾張一宮武将隊の演舞、ちびっ子のど自慢、津軽三味線など盛りだくさんの催しが行われていました。先ほど、高台寺から寄贈されたホンキリシマツツジとシロヤブツバキを紹介しましたが、昨年のつつじ祭では、その高台寺の住職が来て講演をされたそうです。

 浅野公園のシンボル的な花のつつじやふじは有名ですが、それ以外に珍しい植物として「ヒトツバタゴ」も植えられています。ヒトツバタゴは別名「ナンジャモンジャの木」と言われています。このナンジャモンジャの木は、中国、台湾、朝鮮半島および日本では岐阜県東濃地方と愛知県、長野県の一部、長崎県対島の北端にのみ自生する珍しい分布形態をとっています。私が卒業した小学校の校庭に、校舎の2階を超えるような大きなナンジャモンジャの木がありました。
 ナンジャモンジャの木は、4月下旬から6月上旬頃に白い花が咲いて、まるで雪が積もっているように見え、その景観は実に見事です。小学校の頃は遊びに夢中でナンジャモンジャの木そのものにはあまり気に止めず、毎年春になると何か白い綿のようなものが積もっているなあと感じた程度でした。今では、市の広報にもその小学校の校庭のナンジャモンジャの木の見頃情報が載り、見物客もかなり来ており、あらためて見に行ったことがありますが、小学校の頃より一段とナンジャモンジャの木が大きく成長しており、見事なものでした。

 冒頭で、地域住民が立ち上がり、浅野長勝とその子浅野長政の邸宅跡地を公園にした経緯を述べましたが、つつじ祭そのものも暖かみのある手づくり感覚が感じられる地域住民が一体となって運営しています。地域の子どもたちはじめ、お父さん、お母さん、おじいちゃん、おばあちゃんなどたくさん訪れており、地域に根ざしたほのぼのとしたいい感じのお祭りでした。現在、地域住民が立ち上げたつつじ祭のガイド風景「一宮つつじ祭推進協議会」が中心となって、つつじ祭を運営していますが、そこに至った背景というかつつじ祭を続けようという心意気を最後に紹介していきたいと思います。

 冒頭で、浅野公園を取り巻く商店街の浅野商店街振興組合の理事長さんでなおかつ今回のつつじ祭を主催している「一宮つつじ祭推進協議会」の会長さんでもある村上さんにご案内頂いたと述べましたが、つつじ祭そのものの運営は、2年前までは商店街が中心となってやっていました。日本全国多くの地域で、地域のお祭りやイベントなどを商店街が担っているケースが多いと思います。そして、全国的に商店街が厳しい状況にある中で、商店街の衰退に伴い地域のお祭りやイベントなどが成り立たなくなってきていたり、継続が難しくなってきているところも多々あると思います。

 駅前や中心市街地にある商店街はまだまだ余力はあると思いますが、特に、郊外の商店街になると徐々に商店街の加盟店の多くを占める個人経営の店が減っていって、その変わりに近くに大型店ができたり、全国チェーンの店が進出してきている現状が見られるなどより厳しい状況となっています。ここ浅野商店街も一宮市の郊外に位置し、商店街振興組合そのものは、特に負債があるわけでもなく、財政的にはまだまだ余裕があるようですが、お店が徐々に減っていき、お祭りやイベントなどの担い手(人手)がなかなかいないという問題を抱えています。
 多くの課題を抱えている商店街で、お祭りやイベントなどで動ける人は、いつも同じメンバーの理事長はじめ数名の役員たちで、その人たちに、かなり負担がかかっており、かといって、後継者となる若手もなかなか見つからず、現在の組合員がどんどん高齢化を迎えてきている状況というジレンマを抱えています。

 以前、紹介しました安城市の中心市街地もある複数商店街の中の一つの老舗の商店街では、安城七夕まつりサンクスフェスティバルなどのイベントを商店主だけで企画運営するのは人手的にも難しい状況を迎えつつあり、町内会と一体となって進めています。
 昭和30年代、40年代など商店街が元気だった全盛期のころは、お祭りやイベントなど商店街および地域の活性化は、商店街の店主自らが互いに団結することでやってこれたと思いますが、現在では、上記で説明したような課題、置かれた状況もあり、商店主だけで商店街や地域の活性化を考えて、実際に労力を使って活動していくことが難しくなってきています。地域と一緒になってやったり、学校や企業などと連携してやっていくなど協働の時代、新たな組織体制の模索が始まっており、商店街振つつじ祭の浅野公園の堀興組合そのものも今の時代に合った形態に変えていく時期を迎えています。

 少し前置きが長くなりましたが、浅野商店街の場合、年々商店主が年齢を重ねていく中、今後「つつじ祭」を商店街だけでやっていくのには限界を感じ(商店街の店主も町内会の一員であり)、数年前から町内会と話し合いを重ねて、2年前に商店街の店主と町内会が一体となった「一宮つつじ祭推進協議会」を立ち上げて企画運営しています。商店街から一宮つつじ祭推進協議会への移行の過程には、一時つつじ祭を中止したこともあったそうですが、やはり地域の宝だけに、復活して今に至っているとのことです。一宮つつじ祭推進協議会の初代会長は、広く町内会役員へのノウハウの伝承もあり商店街の理事長が行っていますが、次は町内会にバトンタッチして、地域が行うお祭りに完全移行していくようです。

 少し余談になりますが、上記で示したように商店街で行っていたお祭りなどのイベント事業は協議会に移行して、現在は、商店街の事業は街路灯管理のみとなり、将来的には苦渋の選択ですが、商店街振興組合の解散も視野に入れているようです。全国的に商店街振興組合が解散して一番困るのは、お祭りなどのイベントがなくなってしまうこともありますが、それ以上に、地域を明るくしていた防犯にも役立っていた商店街の街路灯が消えてしまうことです。多くの人が商店街にある街路灯を行政が管理していると思っているようですが、行政ではなく、商店街が街路灯を立てて、電気代や維持管理費を賄ってまちを明るくしています。(補足:自治体によって異なりますが、行政側が電気代など補助金という形で一部サポートしている面もあります)商店街の立場から考えてみますと、商店街エリアに居住している方々は商店街の街路灯の恩恵を受けており、もちろん商店街側の魅力的な商品提供など努力は必要ですが、できるだけ商店街で買い物をすることで商店街の存続および街路灯の存続、お祭りの存続などにもつながっていくことを少しでも想像力を働かせていただけたらと思っております。

 現在、浅野公園を取り巻く浅野商店街エリアには250本ほどの商店街管理の街路灯があり、その他、町内会・行政管理の防犯灯もありますが、商店街の解散に伴い250本もの商店街の街路灯がなくなると地域が真っ暗になってしまい、防犯上も支障をきたします。商店街側もそのようなことにならないように、理事長はじめ役員の元気なうちに、苦渋の選択ではありますが、将来的な商店街の解散に向けて、街路灯管理のあり方を町内会と話し合いを始めているそうです。今後、商店街、町内会、そして行政と連携しながら、商店街の街路灯の管理を担う新たな街路灯管理組合の組織体制などについて話し合っていくそうです。全国的に同じような課題を抱えている商店街もあると思いますので、浅野商店街の取り組みは、いい意味で新たな地域に根ざした商店街振興組合の新たな枠組みづくりの方向性を示唆しているような感じがいたします。

 皆さんも是非、機会がありましたら、自分たちのまちを守っていこうと商店街および町内会など地域住民の心意気が感じられる地域挙げての「つつじ祭」を訪れてみてはいかがでしょうか。また、つつじ祭などのハレの場だけでなく、時代を駆け抜けた歴史ロマンの感じられる普段の静かな浅野公園をぶらっと訪ねて、先人の名士たちに思いを巡らせるのも趣きがある思います。

By Nagura

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